日本の戦争について

昨年の12月25日、例年ならクリスマス忘年会と称していつものお茶のみ仲間が集まってお喋りして過ごすんですが、今回はテーマを決めてやることにしました。というのも、11月30日(日)の「たかじんのそこまで言って委員会」があの「田母神発言」のご本人をスタジオに迎えての「国防スペシャル」だったからです。見た方からお電話を頂きました。「怖かった。戦争は二度としたくないという考えはもう通じなくなったのかしら」というような内容で、80歳の方です。そこで、「じゃ〜一度話し合ってみましょうか」ということに。戦争は狂気だから、戦争にならないようにしないとというのが結論だったかもしれません。いつもなら避ける話題ですが、みんなで話ができてよかったです。

戦争については私自身父や母からもあまり詳しく聞かされることもなく、またこちらから聞き出しにくくもあって、ふれないのがエチケットのような感じで過ごしてきました。根掘り葉掘り訊くようになったのは戦後60年も経ってのここ数年のことです。

人生経験を共にすれば考え方も同じかというとそうでもない。親が大学を出ていない場合でも、子育ての方針が「だから大学なんか必要ない、肝心なのは実力」と「世の中やっぱり学歴」と正反対になることもある。「失敗は成功のもと」といってもその失敗から何を学ぶかによって進む方向は真反対になるケースもある。戦争についても同じ。いわゆる右から左までの国防論も要はあの戦争(太平洋戦争・大東亜戦争第二次世界大戦、*最近、昭和戦争という言い方を聞いて驚きました!)についての反省・評価の仕方が一致しないからだと思います。

戦後40年の時、当時のドイツ連邦大統領ヴァイツゼッカーの有名な演説「荒れ野の40年」を10数年前、たぶん戦後50年の頃に読みました。ナチスの蛮虐を許した国民の責任にもふれつつ、自分の命をかけてナチスに対抗した人たちが居たことを誇りとするとあり、強い印象を持ちました。ここには、当時の辛い時代を様々な立場(ユダヤ人狩りに協力、密告した人も、ゲシュタポと闘った人も)で生き、死にした人々を同じドイツ国民の歴史として共有しようという姿勢があります。

日本の場合はそれがありません。何年か前に読んだ加藤典洋の「敗戦後論」に書かれていますが、日本の戦後はジキルとハイドの二重人格、一方の存在は一方の存在を前提としていて、二つで一つというわけです。はやく人格統合して一人の日本人としの正常な人格を取り戻さないと、と思いました。ところが昨年、テレビでアメリカの大統領選挙のオバマさんとクリントンさんのデッドヒートを取り上げていているなかで、オバマさんの「リベラルのアメリカも保守のアメリカもない。あるのはアメリカ合衆国だ」という言葉が耳にとまりました。アメリカにもいよいよこういう人が出てきたのだと思いましたが、大統領にまでなってしまいました

敗戦後論

敗戦後論

このオバマ氏の演説は2004年の民主党大会で基調演説として行われたもので「大いなる希望」というタイトルがついています。長い演説の終わり部分にあたりますが、原文から引用してみます:
There is not a liberal America and a conservative America - There is the United States of America. There is not a Black America and a White America and Latino America and Asian America - There’s the United State of America.

There are patriots who opposed the war in Iraq, and there are patriots who supported the war in Iraq. We are one people, all of us pledging allegiance to the Stars and Stripes, all of us defending the United States of America.

第二節のイラク戦争に反対した愛国者もいれば、賛成した愛国者もいる。(私たちは一つの国民であって、みんな星条旗に忠誠を誓い、みんながアメリカ合衆国を守っている)」
国民を分断する考えには与せず、アメリカ100年の歴史を踏まえ、次世紀を見据えて、今なすべきことを訴える。そして、Yes, we can. です。

およそ150年前、遠い幕末の日本にいて、日本を近代的な民主主義国家にしようと命がけの国造りに奔走していた坂本龍馬がお手本にしたのがアメリカの民主主義でした。さすが大先輩だけあって、ブッシュさんの後の復元力が利いています。そして、アメリカ国民が拠って立つ基盤は独立宣言であり、リンカーンゲティスバーグの演説であり、アメリカン・ドリームです。

生声CD付き [対訳] オバマ演説集

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私たちにとっては一体何が拠り所なんでしょう。国論が二分するような場合でも日本人なら同じところに、同じ意識に、同じ精神にもどれるところ。それは日本国憲法だと思います。あの戦争で死んでいった日本人は300万人以上。その尊い命と引き換えに得たものが今の平和憲法だと思います。

その成り立ちにはいろいろ問題があるといわれています。日本はあの戦争で負けました。そしてアメリカ一国に占領されてからの戦後スタート、すぐ米ソの冷戦体制にアメリカ側として組み込まれ、厳密な意味での独立を成し遂げていないという本当に特殊な状況下での60年。憲法自体にいろいろ矛盾や妥協や不備があって当然。歴史においての「いいとこ取り」をやめて、上り坂の栄光の歴史も、失敗の汚点の歴史も丸ごとの過去を受け入れる。無謬の「侵略ではなかった」歴史が誇りなのではなくて、克服、復活、再生の過程の歴史が誇りなのです。過去の光と影をともに一度日本の歴史として受け入れ飲みこむ。

同じように、戦後のスタートの原点となった憲法でも「いいとこ取り」をせずに丸ごと受けとめる。戦争中、天皇陛下万歳と叫んで戦った兵士も、天皇制反対をとなえて拷問の果てに獄死した人も、ともに同じ日本人として丸ごと抱えて受け止める憲法の第二章が「戦争の放棄」。この戦争放棄を守りたければ、第一章の「天皇」の第一条「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」も当然、大切に守られなければなりません。

1945年、7月に連合諸国家の発したポツダム宣言を受諾して8月、日本は戦争に負けました。ポツダム宣言は日本軍国主義の除去と民主主義の復活強化を日本に要求していました。新しい憲法の誕生には当時、日本政府の「天皇主権の君主制の維持」という考えから、日本占領の連合国管理機関である極東委員会の意向である「共和制」までありました。アメリカの単独占領のもと、そのせめぎ合いのなかで今の「象徴天皇戦争放棄」があります。権威と権力を切り離してきた日本の伝統的な統治システムである天皇制を残すためにも戦争放棄が不可欠であったということです。戦争に負け、新たな出発をこういう形でやってきたということを日本人として一旦丸ごと受けとめる覚悟が必要だと思うのです。

今は、米ソ冷戦体制後のアメリカ一極集中の時代も終わり、世界はすでに多極化していますが、そのなかにあっても、日本国憲法の前文と9条の持つ意味は少しも古くなっていないと思います。もう一度日本人として戦争の遺産を見直して、現状を見つめなおしてみる。意見の対立でバラバラになるのではなくて、意見は違ってもそれは国を愛するが故として、立ち戻れる共通の原点を取り戻して日本人として統合されなければならないと思うのですが。