土曜日の夜、電話で「明日、行かない?」と誘われて、ちょうど夫が福井県の荒島岳雪山テント泊で留守でしたので、二つ返事でOK。日曜日の朝9時半駅待ち合わせで神戸大丸へ出かけました。
月遅れで借りている「いきいき」にもよく取り上げられている白州次郎・正子夫妻ですが、武相荘ツアーが紹介されていても関東圏なら行けるのに〜と思っているだけでした。思いがけないお誘いを受けて三の宮のアーケード街を通り抜けて元町へ。震災の年のルミナリエ以来なので懐かしい。
今年は正子没後10年、次郎は23年にあたるとか。展示は「白州次郎」、「白洲正子」、「次郎と正子」の三部構成に。白州次郎は神戸一中卒業後イギリスのケンブリッジへ留学(1919年17歳から1928年まで)。26歳で帰国後、華族令嬢の樺山正子と結婚。吉田茂の側近として憲法制定の交渉やサンフランシスコ講和条約の発効に至るまで活躍。「敗戦後の難局に、連合軍総司令部と対等に渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わせ、独立と復興に道筋をつけると、躊躇なく政治の表舞台から去った」とあります。
憲法制定でアメリカ側と日本側の間に入って苦労したことが知られていますが、英文でGHQの性急なやり方では駄目だと説得する「ジープウエイ・レター」。米軍のやり方は「エアーウエイ」でとイラスト付きでした。オリベッティのタイプライターも展示してありました。憲法制定最後のやり取りの後の覚書?に当たる和文タイプで打った原稿。すべて漢字とカタカナ文字なのに、最後の方の「今に見ていろ」だけが平仮名交じりになっていて、ハッとします。最後に「涙ス」となっていました。
天皇の統治権をそのまま残すという日本政府案と占領軍の間で苦悩するこの時の白洲次郎の悔しさは、当然戦勝国として権威をふりかざすアメリカのやり方にあったはずです。でも、又、世界が求める民主化を理解しない旧弊な日本政府担当者の考え方にもあったのではないかと思うと、この時の白洲次郎の涙は孤独だったろうと思えます。
白州正子は14歳でアメリカに留学、帰国後、18歳で次郎と出会い、結婚。戦後は小林秀雄、河上徹太郎ら文化人との交流をとおして文学、古典、古美術の世界に傾倒し、培った審美眼を活かして随筆家となる。また1956年(昭和31年)から約14年間、銀座の染色工芸展「こうげい」の経営に直接関わり、さまざまな分野の優れた職人を見出す。展示品はその審美眼で収集されたものの一部。桃山時代の作品が多く、能の衣装も。
最後のコーナーでは二人が過ごした白州邸武相荘の一室がそのまま再現。大ぶりなソファ、クッション、衣装箪笥、掛け時計、次郎手作りの竹製のフロアスタンドなどが展示されていて、「二人の強烈な美意識と個性が交差する中で極められた魅力的な生活スタイル」が窺えます。
武蔵と相模の国境の辺り、鶴川というところに戦前から住んで畑仕事も本格的にやっていた時期もあったようで、農器具や大工道具の展示も。最後にたった2行の遺書「葬式無用、戒名不用」の遺書が。大胆で大らかで個性的な筆致です。
グッズ売り場で私は三田市が発行している小冊子「白洲退蔵」(さんだ人物誌)を求めました。それによりますと、白洲家の先祖は三田藩の儒官として召抱えられ、代々朱子学を教えていた。次郎の祖父に当たる退蔵は儒学の学者から、藩政の改革、近代化の推進にも努めたが、廃藩置県後は神戸に出て事業経営に成功し、また子女教育にも力を注ぎ、後の神戸英和女学校(後の神戸女学院)の創設に自宅横の所有地を提供して援助。その後、福沢諭吉の推薦で横浜正金銀行の副頭取になるが、内部のごたごたや大蔵省の役人とも意見が合わず2ヶ月で辞任、岐阜県の役人に。4年後には三田に戻り藩主九鬼家の家事を切り盛り、藩士子弟が高等教育を受けられる奨学金制度を確立する。明治24年(1891年)九鬼隆義が病没。退蔵はその後を追うように63歳で亡くなる。「最後まで九鬼家のために、また主君へ真心を尽くし家臣としての勤めを果たすなど儒学者にふさわしい一生でした。」
写真で見ますと、次郎は顔立ちが父親よりは祖父に似ています。父親の白洲文平は米国のハーバード大学とドイツのボン大学に留学。帰国後は三井銀行、大坂紡績会社に入社。人に使われるのを嫌い、綿貿易の会社「白洲商店」を興して巨万の富を築く。伊丹に敷地4万坪、美術館まである邸宅など、趣味の建築に散財。昭和の金融恐慌で破綻後は、阿蘇山麓に移り住む。母の芳子は文平が豪邸を建てる度に引っ越し。破産したときは「これで人並みの暮らしができる」と喜んだという。次郎がケンブリッジ大学院の時、この白洲商会倒産で帰国している。
白州次郎の口癖が「プリンシプル」だったと正子が言っていたそうです。小冊子の中に挟んであったパンフレットには「生涯、紳士であり続けた日本・昭和の侍、白洲次郎」「原理原則(プリンシプル)に生きた快男児の軌跡」とあって、発行元は「九鬼奔流で町おこしをする会」とあります。白洲次郎のなかに儒教的な考えとイギリス紳士道が共存しているという考えだと分かります。
白洲次郎の生き方が今「かっこ良く」見えるのも無理ないこと。いつの頃からか日本人は白洲次郎にならって言えば「プリンシプル」(筋の通った生き方)を失ってしまっているようです。今回も、無くなってしまわないうちに、「美しい日本の面影(ラフカディオ・ハーン)」を取り戻す必要があると思いました。
美しいものは、いつ見ても素敵!