「おくりびと・悼む人」(NHK「クローズ・アップ現代」)を見て

NHK[クローズ・アップ現代]2月26日(木)は「おくりびと・悼む人」と題して、ゲスト解説者は中沢新一氏。なぜ今、死を題材にした映画や本が受け入れられるのかというのがテーマ。この中で映画「おくりびと」の発案者である本木雅弘氏(というより「シブがき隊のモックン」がこんなに立派になって〜と母親目線で見てしまいますが)の発言が聞けてよかったです。

彼は28歳の時、インドへ一か月出かけ現地の様子を見て生と死とが共存し繋がっていると感じて帰ってきます。インドへ旅行した人の話ですが、ガンジス川の川辺で死体が焼かれ、下流で大勢の人たちが沐浴している姿を見て、それが太古から変わらぬ景色だというのに衝撃をうけたとか。本木さんはその後青木氏の「納棺夫日記」に出会い、映画化を志すのですが、彼は「自分がちょうど新人類といわれるハシリの世代で身近に死を体験したことがなく、死にリアリティを感じることがなかった。その分また生きていることのリアリティも薄かった」と言っています。別の番組の取材ではインド旅行の切っ掛けは藤原新也の写真集「メメント・モリ」(死を想え)であったと答えています。

中沢氏は、今まで強者(プラスのもの)にあまりに光が当てられて、弱者(マイナスのもの)は置き去り、邪魔者扱いだったというような指摘をしました。それが、ここにきて見直しを迫られ、「おくりびと」が注目されることで明らかに社会が変わり始めたと。世の中が優しい時代に向かい始めているのなら本当に嬉しいことです。

私はこの番組を見ながら先ごろ読んだ「フラジャイル・弱さからの出発」(松岡正剛著)を思い出しました。

「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。
「フラジャイル」(fragile)とか「フラジリティ」(fragility)は「もろさ」とか「こわれやすさ」とか、あるいは「きずつきやすさ」という意味をもつが、そこには、たんに脆いとか壊れやすいというだけではすまないただならぬ何者かがひそんでいる。
一般の社会では「弱さ」はつねに「弱々しい存在」が発するものとみなされ、たいていは「弱者」の規定をうけてしまう。「弱さ」は強靭な社会的烙印として機能をしはじめて、人々を一挙に襲う。・・・それゆえに社会の平均的な正常性からすこしでも変位したり、ずれた者には、ときに悪意を持って弱者の規定がくだされる。・・・こうしてもっぱら排除の対象とされる歴史を背負ってきた。弱さは異質性や異常性として理解され、ケガレやキヨメの対象にされる。

で、弱きものの強さについて、例によって古今東西、微に入り細をうがっての考察がはじまるのですが、その対象の幅の広さ、考察の深さ、詳しさ、難しさにはとてもついていけません。

おおむね「弱さ」は「強さ」の設定によって派生する。いったん強弱が決まると、弱さはもっと深いほうへひっぱられていく。本書が一貫して綴ってみたかったのは、なぜ「弱さ」のほうが「強さ」より深いのか、なぜ「欠如」のほうが「充足」よりラディカルなのかということである。いいかえると、「弱さ」はなぜわれわれに近いのか、ということだ。

これまで人間の歴史は、弱さを辱め、弱さを潰していくことによって肥大してきたといっていいでしょう。強さを求める歴史は、たしかに強大な国家をつくり、何もかもに手を出す企業となり、並ぶものなき世界警察帝国を君臨させました。しかし、歴史は「強がりが勝ち続けてきた」と言っているでしょうか。「勝者は永遠だ」と証明したことがありますか。実は逆だったのではないですか。・・・・・
社会や経済や文化の舞台には必ずやどこかにフラジャイルなものがひそみ、それをもし力だけで圧し潰そうとすれば、きっとフラジリティの反撃を受けるということなのです。フラジャイルなものこそが、実は最も繊細な本質をもちながらも、最も過激な思想や存在であろうとしていると私には思えます。・・・・(本文とあとがきより・1995年7月7日)

引用が長くなりましたが、これが10数年前に書かれたものです。
同じ頃、同じところに着目した本木さんが10数年の年月をかけて映画にしたのが「おくりびと」です。
そして、確かに日本も世界も弱きものの存在に心を致す時代を迎えたといえます。

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

(「フラジャイル」が文庫本になったのは単行本の出版された1995年の丁度10年後です)