アフガニスタンの米軍についてのNHK・クローズアップ現代の放送を見て、アメリカがというか、オバマ政権の政策がブッシュ時代とは根本的に違った方向へ進んでいることがよく分りました。イラクの失敗に学んだということなのでしょうか。
アフガニスタンでは米軍は黒子に徹して復興の主役はあくまでもアフガニスタン、自主、自治を支援する立場に徹するという姿勢。兵士に読み書きを教え、農業もという長期戦。教育、訓練、指導という仕事までも。要は前面にでて憎しみの対象になることを避けて、アメリカ兵の命を大切にするという転換。ここまで入り込んで大丈夫なんだろうかという心配も。タリバンとの戦い、どっちにしても関わらざるを得ないアメリカの業のようなものに、大変だな〜と。
他人事ではなく、日本もアフガン復興にアメリカから自衛隊の派遣を求められたとか、8日のクローズアップ現代(緒方貞子さんがゲスト)で。日本政府は自衛隊派遣は無理、代わりに文民をということで復興支援を行っているとのこと。「アメリカに求められる」というところが日本の立場なんですね。日米安保条約があるからなんでしょうね。本来なら、国際情勢を自主的に判断して・・・でしょうし、国連から求められてならわかりますが、「Show the Flag」の次のステップだったわけですね。
NHKといえば、6月のJAPANデビューのシリーズ、第3回と4回を録画で最近見ました。横浜開港を開国、世界への日本デビューと考えて150年を振り返るこのシリーズは、各テーマに沿って日本の近代、現代史を整理する良いチャンスなので見逃さずにと思っています。
第3回の「通商国家の挫折」:三井物産戦略研究所所長の寺島実郎氏が解説していました。
「通商国家」というのは結局、輸出によって国家の財政を築こうとした日本が三井物産を興し、大陸に打って出た時期が、もうすでに列強が中国大陸に進出を果たし、綿製品で新たに進出していたアメリカとぶつからざるを得なかった時期。当時の中国を巡っての日米対立が、綿製品から石油に変化して、やがて日米開戦にまで発展した。それに、ヨーロッパの情勢判断に誤りがあった(これは第4回に)。日米中のトライアングルの関係はこの時から始まっている、という指摘は面白いなと思いました。
当時の福沢諭吉の「脱亜入欧」は通商=貿易をして世界に飛躍=販路を求めていこうという「通商国家モデル」と同義。(寺島氏解説)
さて、日本初のグローバル企業・三井物産を通して通商国家日本を眺めてみようということですが・・・
スタート時点の日本は超貧乏国。輸出に対して常時輸入超過で金銀が流出していく。列強は自国産業保護のために20〜40%の関税をかけるのに、日本は通商条約で一律5%の関税。自主変更の権限も無し。時の内務卿・大久保利通の肝いりで輸出を増やすことになり、1875年、大隈重信の求めに応じて三井が貿易商社・三井物産を興す。井上薫の推薦で、ハリスの下で英語を学んでいて、貿易実務に通じているとして27歳の増田孝を社長に。しかし、三井は貿易は危険と資金は出さず。資本金ゼロ、社員16人でのスタート。翌年、上海に初の海外支店を。
当時の清朝中国は人口3億で、世界の富の中心と言われ、ヨーロッパからは「中国は宝の山」とも。列強の貿易商が巨大な購買力を目指して殺到していた時代。三井物産はここで米と石炭の一次産品の輸出からスタート。
当時イギリス製の薄い綿布が上質で評判だった。綿製品の売り上げが総額の三分の一を占め、ビクトリア時代の栄華を築いていた。日本は日清戦争中に満州に乗り込んで市場調査をしたら、意外にも、冬寒く、夏涼しい満州では、イギリス製の高級な薄地の綿製品より厚地のアメリカ製(土布=どふ)が市場の90%を占めている事が分り、これと値段で競争するしかないと判断。当時アメリカ南部は世界最大の綿花生産地(「風と共に去りぬ」ですね)で、ペリーが開港を迫ったのも中国へ綿製品を売り込むための燃料と水の補給が目当てだった。ところが1861年からの南北戦争で中断、その後やっと本格的に中国へというのが1895年ごろのこと。
日本はインドのムンバイ(=ボンベイ)に三井物産の支店を置いて、デカン高原の奥地にまで買い付けに出かけ、綿花の直接買い付けをした。1904〜1905年の日露戦争ではアメリカ製綿布を追い落とすことに。未交換のままの軍用手形を用いての決済を利用して、アメリカより2割安い綿布を実現して1906年には遂にアメリカ市場を奪ってしまう。
「通商国家モデルと富国強兵のあざないが日本の近代史だった」(寺島氏解説)
1911年、清朝が孫文の辛亥革命で中華民国へ。三井物産はこれを機に一層の事業拡大へ。重工業化を急ぐ日本は官営八幡製鉄所を作り、西園寺公望は孫文と交渉して鉄山の共同経営を目指したが、株主に否決され、叶わず。2年後には第1次世界大戦でヨーロッパは中国への余裕なく、日本の中国進出が拡大するが、中国市場は反発。そこで、中華民国に「21カ条の要求」をつきつける。中華民国政府は受諾するが反日運動が起こる。日本の中国独占に対して、列国から異議、特に利権を持たないアメリカの「門戸開放、機会均等、領土保全」の要求とぶつかる。一方、中国は欧州と日本のカウンターパワーとしてアメリカを歓迎。ここに日米中のトライアングルが出来、これが太平洋戦争までの中国を巡る日米対立となる。
第1次大戦が終わり1919年、パリ講和会議。同年、中国では五・四運動という排日運動が興り、孫文も日本に対して中国方面侵略をやめさせるよう文書をかくことも。1929年にはアメリカで大恐慌となり、アメリカは不況、日本の生糸が売れず、倒産、リストラ、失業者が。犬養毅内閣は金本位をやめ、円安となって三井物産も息を吹き返すことに。おもちゃ、自転車、機関車など100以上の品目を扱う。綿製品も世界へ。1933年にはイギリスを抜いて世界一に。輸出拡大、10%の実質成長で不況から抜ける。大企業は潤うも農民は疲弊。貧富の差が拡大。三井物産は恨みを買い、團琢磨が射殺される。貿易摩擦は拡大。日英貿易摩擦解消のため2国間会議を持つが交渉決裂。
ところで、1859年、アメリカ・ペンシルベニア州タイタスヒルではパイプで石油を地中から取り出すことに成功。ジョン・D・ロックフェラーがスタンダード石油会社を起こす。1871年にはロシアではバクー油田(カスピ海油田)の油をマーカス・ミシェルがタンカー(船)で輸送、シェル石油が誕生。同じころオランダ領スマトラ島ではロイヤルダッチとシェルが合併、進出。アメリカのスタンダードも進出。世界の油はすでにこの頃からグローバルな巨大石油会社に支配される。石油は戦略的一次産品、国家の安全保障にとって大切な一次産品であった。日本では、このころ海軍で航空機燃料が重油分解からは取れず、原油からしか作れないことがわかり、このままでは戦闘機が使えないという事態に。
「燃料国策の大綱」(1933年)では原油獲得のため海外油田を発掘することとなり、満州を目指す。1934年には「石油専売法」で製造販売が政府許可制。油田探査、20か所の試掘が始まる。
1937年日中戦争が始まる。「日満支経済ブロック」が門戸開放のアメリカと対立。アメリカ国務省は「日本に中国を支配させないことがアメリカの国益。中国に援助を与えること」という方針。アメリカは建国以来初の経済制裁に。ところが当時の日本は資源の8割をアメリカに依存していたので、日本はアメリカのお得意様でもあるとして、日米関係は決定的なものにはならないという甘い観測が日本側にあった。ところが、アメリカは日本より中国を優先。
三井物産は、アメリカから石油が入らない事態に、メキシコから石油をと考えたが、すでにアメリカに支配されていた。ところが、メキシコが石油生産の国有化を宣言、米英は施設を奪われる。メキシコ南部のミナチトランのメキシコ石油公社は買いたいところへ売る方針。三井物産の代理のNAGABUCHIという現地法人が契約に成功。1938年、建川丸が日本へ向け出港。ところが、1940年、メキシコ政府が日本への輸出停止。米州諸国連帯協定を結んだため。
また、1937年には、横浜正金銀行ニューヨーク支店の日本政府の預金一億ドルをアメリカに報告していなかったことが分り、資産凍結にあう。
いよいよアメリカの対日対決姿勢が明確となり、1940年1月26日、日米通商条約破棄。(1941年、12月8日、日米開戦)
U〜〜〜〜nn、という感じで見終わりました。
富国強兵の最初から国家と会社?が一体となった日本、そうでなければ後発の通商国家が列強に追いつくことも出来なかっただろうとは分かっていても、いつまでも余りに官民一体、同体だったことが、冷静な情勢分析や老獪な判断を出来なくしたのでは? どこかで政治と経済の分離を図れなかったか、図るべきだったのでは?と、歴史に「たら、れば」は詮無きこととは思いつつ、ついつい・・・・
「憲法9条のメリットは、戦後、日本に軍需産業がないこと」と外国の方が言っていましたが、アメリカの場合も政治家の意志、国民の意志とは別に巨大軍需産業の影響という大きな問題があって、戦争か平和かの問題では無視できないアメリカの大変さの一つだった(今も?)と思います。
日本では、戦後から今までは大丈夫でしたが、これから先も、軍需産業(「死の商人」)の論理で引っ張って行かれないよう、9条は残してほしいと思いますが・・・
日米中の間で、また新しい局面でのトライアングルが出来ています。今回は、失敗に学んで協調、協力の三角関係にしてほしいと思いますが、政治家に、過去の歴史に学ぶ度量の大きさ、懐の深さを備えた人、海千山千の人物が出てきてほしいと思います。