NHKスペシャル 「シリーズJAPANデビュー」 第4回 軍事同盟 国家の戦略 (6月28日放送)を見て

西洋列強がアジアに目をつけていた150年前、鎖国を解いて国際社会に踏み出したばかりの日本、
どうやって戦争に次ぐ戦争の時代に突入し、どうやって、国際社会で孤立し、太平洋戦争へ、そして敗戦、今は?
日本が最初に結んだ軍事同盟が日英同盟であり、このおかげで日露戦争に勝つことができた。
同盟に国家の生き残りを託しながら、どうやって破滅への道を突き進んだのか?
その裏には当時の最新技術、レーダーを巡る駆け引きもあった。

先日とりあげたハンガリーの彫刻家ワグナー・ナンドールの「ドナウの叫び」の出だしは、極東の小国日本が大国ロシアにまさかの勝利をあげたことが、22年後のハンガリーでどんなふうに受け止められていたかが窺い知れるシーンで始まっています。ナンドールの祖父はオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフの侍従部官長を長年務めた人物。彼は孫に、トーゴー元帥が戦闘が終わったあと、海に浮かぶロシア兵の救助に全力を挙げ、後日病院に見舞ったこと、また、ノギ将軍が会見の際に、敗れた敵将ステッセルに帯刀を許し、日本将兵の慰霊式典より先に、敵であったロシア軍将兵の慰霊行事を行ったというエピソードを話し、これが「ブシドー」、ただ強いだけでは駄目だということだと5歳の幼子に話して聞かせる。
遠く離れた異国にいてさえ当時アジアの国がロシアを負かしたということは大変な事だったわけで、日本人が舞い上がって、のぼせて自己肥大、自信過剰になっても仕方がなかったかもしれないほどの出来事であった、と想像できる。

「第一部・日英同盟」、「第二部・日独伊三国同盟

第一部 日英同盟の時代(1902年・M35年〜1921年・T10年)
日英同盟は日本が初めて結んだ対等の軍事同盟であり、その条約の第三条には「同盟国が他国と交戦し、第三国が参戦した場合、共同で戦闘に当たる」とあります。当時、ロシアの南下政策が日英共通の脅威となっていた。
シベリア鉄道が完成すると世界最強の陸軍を極東アジアに自由に持ってこられる。日本は満州でロシアと緊張状態にあり、一方イギリスは1989年、南アフリカでダイアモンドと金を巡る第2次ボーア戦争で膨大な戦費がかかり、1900年には中国で外国人排斥の義和団事件があり、限られた兵士しか送ることが出来なかったイギリスは世界各地の軍事体制の見直しを迫られていた。香港の中国艦隊に着目した海軍大臣が「中国近海の海軍力を最小限にする為日本との同盟を結び、これ以上の軍艦配備を不要とするよう」報告をしていた。日英同盟の英国側の狙いは「アジアの新興国日本を取り込んで東アジアの安全保障の責任を日本と分担することにあった。同盟の本質は英国が経済的支出することなく帝国をいかに維持するかにあった。」(イアン・ニッシュロンドン大名誉教授)

1904年2月、日露戦争が日本の先制攻撃で始まる。戦場は朝鮮半島から満州へと拡大。戦局はロシア軍に対して日本の予想外の勝利が続く。秋、ロシアが挽回策を取り、40隻からなる世界最強バルチック艦隊を日本へ派遣することに。この作戦はロシアの同盟国フランスがカギを握っていた。3万キロの大航海を仏領で水、石炭の燃料補給、休養が出来ると考えていたが、1904年4月、英国はフランスと手を結ぶ(英仏協商)。フランスは日本を攻撃するバルチック艦隊を支援出来なくなった。補給を受けられず、石炭を喫水線ギリギリまで積み込み、粉じんだらけの劣悪な環境で兵士は消耗、日本近海に到着する前に、体力、戦意は喪失。一方、日本の連合艦隊東郷平八郎艦長のもと、準備を着々と整え、対馬沖海戦で圧勝。日本は列強の一つロシアに勝ち、湧きかえる。

日露の戦いをアメリカはどう見ていたのか? セオドア・ルーズベルト「この戦争で日ロ両国が国力を使い果たすことがアメリカの利益だ」と考えた。
1905年8月、ルーズベルトの斡旋でポーツマス講和会議、全権代表に小村寿太郎日露戦争による戦死者は8万人。多大の負担と犠牲の代償を期待したが、賠償金は取れず、「命の大安売り」と国内では不満が爆発。

賠償金は取れなかったものの、満州における租借地と満鉄の権益は手にした日本。しかし早いものは1923年には租借期限が来る。4年後の1909年、満州権益について加藤高明が私信で「このままでは日本が顔色を失いかねない」と危機感を訴えていた。1913年1月、駐英大使となった加藤高明はロンドンで外務大臣グレイに面談し、日本は中国の租借地を返さない可能性があることを伝えた。グレイは「一度手にした領土を去ることの困難は理解できる。しかし、この問題は差し迫ったものではない」と答えた。

1914年7月、第一次世界大戦勃発。西洋列強はヨーロッパに手を取られ、東アジアに空白が。この時、外務大臣だった加藤高明は絶好の機会到来と満州権益確保に乗り出す。1914年8月、ドイツに宣戦布告、第1次世界大戦に参戦。青島に5万の兵を派遣。2ヶ月でドイツ軍を圧倒し山東半島を制圧。その2ヶ月後の1915年1月、中国に「21カ条の要求」をつきつける。主な内容は、旅順、大連の租借地と満鉄の期限を99年延長するなど、日露戦争で得た満州での権益を長く日本のものにしようとした。その後、さらに、日本からの要求をまとめて第5号とする要求を発表。「21カ条の要求」の第5号はより踏み込んだ内容で、軍事顧問に日本人を招くこと、一定量の兵器を購入すること、海外資本導入の際日本と協議すること、などがあって、中国側は内政干渉として強く反発。。英国のグレイは「第5号問題は疑わしい、中国を保護国にしようとしている」と不信感をあらわにした。イギリスは「この条文の中身があいまいで、日本は将来さらに中国に要求するのではないか」という危惧をもち、急速な日本の拡大をおそれた。

「5号案は加藤高明が発案したというよりは、日本国内の軍や実業界、政府与党、宗教界等々の要求を政府でまとめたもので、対外的にどこまでできるかという意識が甘くなり、国内の強硬論に引っ張られた結果、従来の帝国主義外交の範囲を逸脱した」(京都大学大学院奈良岡准教授・日本政治外交史)

加藤はグレイの追求に5号をとりさげた。しかし、その後、武力行使をにおわせる最後通牒を中国につきつけ、残りの要求を中国に受諾させる。当時のアメリカ・ウイルソン政権はこれに猛反発。「中国の主権を侵す日本の政策は一切承認しない」として、太平洋を挟んで緊張関係にあった日米関係に火種をのこすこととなった。しかし、英国は、第1次大戦の戦況悪く、日本との関係は「足踏みをして時間稼ぎ、時期が来るのを待つ」という日本との関係維持、当面棚上げ作戦で何もしないが得策ということに。

1914年に、当時英国海軍大臣となっていたウインストン・チャーチルは書簡で「我が国の関心は北海と地中海の作戦に移っている。しかし将来日本海軍の強力な援助を頼りにしている」と書いている。そして、その時は来た。1916年、ドイツの潜水艦Uボートが太平洋、地中海で連合国側の艦船を攻撃、1917年1月、日本艦隊へ地中海派遣の要請。8隻の駆逐艦からなる第二特務艦隊が、1000人の隊員を乗せて、はるばる連合艦隊の拠点、マルタ島へ。連合軍の艦隊の護衛が任務であった。マルタ派遣は1年半に及び、派遣された駆逐艦は988隻、護送人員70万人。その仕事ぶりは「地中海の守り神」と称えられるも、任務は過酷を極め、魚雷攻撃を受ける危険と惨状に隊員は極限状況にあり、消耗も甚だしかった。国家間の同盟のために死ぬ若い命の犠牲者は78人。何のために地中海で死ななければ・・・という虚しさも隊員たちは感じていた。

日本の特務艦隊が地中海にまだ派遣されている1917年8月30日、東京で21カ条の問題で交渉中の駐日英国大使グリーンのロンドンへの書簡には、すでに上辺だけの日英同盟を否定し「日英同盟を解消し、アメリカを味方につけて、極東の勢力均衡を取り戻すことになろう」とある。イギリスは日米の緊張関係のなか「日本がアメリカを攻撃すればアメリカ側につく」と決意。1921年アメリカのワシントン会議で、日英二国間同盟を破棄、日本は日露戦争以来20年の同盟国を失う。
強かなリ、英国。
愚かなリ、日本。国内の要求に世界の大勢を見失ったか、見誤ったか。
憐れなリ、日本。同盟関係は友達関係ではない。ギブ&テイクの友情が育つ関係ではない。