つづき: NHK「シリーズJAPANデビュー 第4回 軍事同盟 国家の戦略」(6月28日放送)を見て

第二部 日独伊三国同盟の時代(1936年・昭和11年〜1945年・S20年) 

日本のこの時代を思うとき、司馬遼太郎が「あの戦争のことを考えると肺腑をえぐられるような気がする」と言って、決して昭和について書こうとしなかった事が思い出されます。「なんて愚かな・・・」というのは今、振り返って見ればの話であって、私も、当時ならけっこう立派な?「軍国少女」になっていたような気がします。

さて、英国との同盟を廃棄されてから、日本は軍事技術を求めてドイツに接近し、1936年、社会主義国ソ連を共同の敵として日独防共協定を結びます。
ところが、ドイツは同時にそのソ連に対しても軍事拠点を求めて同時接近をはかります。

独露の関係は、1922年のラパロ条約で国交正常化が果たされます。ロシアはドイツの高い軍事力を求めて接近、両国は軍事的協力関係に入ります。
ドイツはベルサイユ条約再軍備は固く禁じられていたのでソビエトに軍事拠点をおいて、「兵器廠」の役割を果たさせる意図があった。リペックには飛行機学校を作り、パイロットの育成を、トムカは毒ガスの実験場とし、毒ガス弾の発射戦闘訓練を、カザンには戦車学校を作り、操縦訓練と開発、砲撃テストを行った。カザンには戦車を大型トラクターに見せかけて運んだりした。どれも、明らかなベルサイユ条約違反行為であり、ソ連ヒトラー政権後の軍備拡張の土台となった。

第二次近衛内閣の外務大臣松岡洋右はこの破竹の勢いのドイツと組もうとしていた。1940年(昭和15年)7月、日独伊の三国同盟にベルリンで調印。これには付属協定があって、ドイツはソビエトとの仲介役を果たすという約束があった。松岡は日独伊にソビエトを加えて4カ国でアメリカの参戦を抑える構想を持っていた。6ヶ月後、松岡洋右はベルリンに出かけ、ヒットラーと面会、ソビエトとの仲介を頼むが拒否される。実はドイツはソビエトを敵として攻撃するバルバロッサ作戦をたてており、ヒットラーは「この作戦は決して日本に漏らしてはならない」と命じていた。

ヒットラーに拒否された松岡は自力でモスクワに乗り込み1941年4月13日、日ソ中立条約を締結、これで4カ国が手を組みアメリカを抑える構想が完成したと得意の絶頂にあった。

ところが、この前夜、英国の首相となっていたウィンストン・チャーチルからの書簡が届いており、それにはドイツと手を組んだ日本がシンガポールを攻撃してアジア戦戦が拡大するのを危惧する内容が。「日本の三国同盟アメリカの参戦の可能性を高くするのか、それとも低くするのか?」、「イギリスとアメリカの鉄鋼生産量は9000万トン。ドイツが負ければ日本の生産量700万トンは単独で戦うには不十分ではないか?」と具体的に問いかけて警告していた。

しかし、松岡の返事は「日本の外交はあらゆる事実を公平に検討し、決定される。我が国は八紘一宇の宿願を持っている。」というもので、チャーチルの警告を顧みることなく、対外進出の姿勢を変えなかった。チャーチルの警告に気付かなかったのか、あるいは警告を読み取る能力がなかったのか?)
1941年6月、ドイツがバルバロッサ作戦を敢行、ソビエトに侵攻松岡の4カ国でアメリカの進出を抑える構想はここに消えた。



この間、軍事技術の面でも開発競争があった。それは、レーダーの波長を短くする技術を巡ってであった。短くなればアンテナも小さくなり、レーダーそのものの小型化が進む。1939年、まず日本が波長10cmの高出力の磁電管マグネトロンを開発。1940年には、イギリスでも作られた。

1941年2月、日独伊三国同盟をベルリンで調印したとき、当時ドイツは80cmレーダーを開発、その技術を得たい日本は海軍視察団を派遣。やっとのことでフランスで設置されたものを見学している。同盟を理由にドイツの先進技術の情報を得たいという日本の姿勢に対して、ドイツはヒトラー総統のもと「知的資産の大売り出し」はしないと厳しい目で警戒、または拒否している。(ここにも思惑違いが。)

一方、イギリスはアメリカと提携して波長10cmのレーダーを実現している。開発に携わったイギリスのアーチボルド・ヒルノーベル賞受賞化学者)がアメリカに向い、1940年3月に帰国後提言している。「軍事機密を提供してでも、アメリカと提携することが国益にかなう。全面的協力関係に入ればアメリカは我々の側につく。大切なのは古臭い優越感ではなく率直であることだ」と。自国の国力を冷静に見ることができた英国は、チャーチルルーズベルトに申し入れをする。その結果、イギリスのマグネトロンはアメリカのマサチューセッツ工科大に持ち込まれ、そこに全米から終戦までに4000人の科学者が集められて、レーダー開発に乗り出す。約1年で実用化の目途がたち、レイセオン社(パトリオット、トマホークの製造元)が精密加工の工法を開発して大量生産のシステム化に成功、ここにイギリスのマグネトロンの熟練工の要らない大量生産が可能になった。

この頃までに、チャーチルが望んだように、アメリカは第2次大戦に本格的に参戦し、太平洋における日本との戦争を引き受けるようになっていた
ガダルカナルソロモン諸島でこのレイセオン社製10cmレーダーが投入され実戦に使われた。1942年11月14日深夜、ガダルカナル島沖で戦艦ワシントンが4隻の戦艦を探知、一斉砲撃。敵艦の存在すら気付かなかった戦艦「霧島」は砲撃を浴びて航行不能になり自沈。211人が命を失う。日本も1943年以降、10cmレーダーを実戦に投入、しかし、中心部分の性能が劣る日本は負け戦。レーダー技術の優劣が勝敗を決することに。
1945年8月敗戦。明治以来戦争に次ぐ戦争を生きたJAPANの最後であった。

ロンドン大学教授のイアン・ニッシュ(日英関係史)によると、「同盟」とは、国家がすべての目標を共有できない、同床異夢が当然。日本は、明治初頭のアメリカ人の「大志を抱け」というメッセージの通り、大志・野望を抱き続けて、多くを得た。しかし、国家にとって重要なのは、その大志を国際関係の中ですり合わせることであるのに、日本はそれが出来なかった。


日本海海戦バルチック艦隊を破った勝利を祝う戦艦「三笠」の記念式典は104年後の今年も5月27日に行われた。この海戦を描いた絵の中、東郷元帥の背後にイギリス製の測距儀が描かれている。これは目標までの距離を測るイギリスの当時の最新式の高性能の技術であった。このメーカーは、今はタレス社に属していて、そのタレス社の最新式潜望鏡が今年5月に進水した海上自衛隊の最新型潜水艦「そうりゅう」にも装備されている。英国の最新軍需技術との結びつきは今なお続いている。この式典の重要な来賓に、アメリカの司令官がいる。彼の祝辞の中には「日本との関係は重要で緊密」という言葉が。戦後焼け跡の占領時代から半世紀以上、アメリカとの同盟関係が続いている。

「複雑な国家戦略が交錯する中、真に国益となる情報をどう掴むのか、他国との同盟をどう選択し、何を得るのか、
150年前、世界にデビューして以来、今なお続く重い課題である」と言って、放送は終わる。


「同盟」とは「契約」。自立した個人が契約の前提であるように、「同盟」の前提は自立した国家。
日英同盟のイギリスはシタタカだったが、ドイツは背信国家であった。にもかかわらず、軍事的な情報や技術を目当てに同盟関係に入った。
そのこと自体が国益に適った事だったのか?が疑問。ベルサイユ条約違反国家との同盟は第一次大戦戦勝国を敵に回すことだったはず。


現在までのアメリカとの関係では、私たちに馴染みがあったのは日米安保体制であって、日米同盟という言葉はここ最近のこと。小泉=ブッシュ時代に盛んに言われ出したのが耳に残っていますね。
日本が軍事的には独立国家の体をなしていないことから、「同盟」関係そのものが成立しない。なのに、言葉で「日米同盟」と言われるには、アメリカの戦略の変化があり、日本に対する「期待」がある。
私は、いままでの日本の結果としてのヌエ的外交は、アメリカによって平和憲法を持たされ、そのまま又アメリカの都合で再軍備させられた私たち日本国民の「敗戦後」の受容と抵抗の表現であって、今まではそれで日本人はアメリカとの関係をなんとか持ちこたえてきたのだと解釈したい。
これからは、独立国として、これからも軍事的にアメリカ軍に従属することを選ぶのか、核廃絶なのか核の傘核武装なのか、あるいは戦略的にあいまい外交を続けるのか?についても、日本人として選択を迫られる問題だと思います。
アメリカの変化、日本の旧体制からの変化なるかという今の情勢、あらゆることが変わり目に当たっているような気がします。
アメリカがかつて「中国封じ込め作戦」(懐かしい言葉??)の橋頭保としての役割を沖縄に求めていた時代は去りました。
日本はアジアの近隣諸国とどういう関係でありたいのか? アメリカの頭で考えていては、それこそ置いて行かれる時代が始まっています。