「辻井伸行・感動のヴァン・クライバーン・コンクール・ライブ」と追憶のK先生

今年6月、アメリテキサス州で開かれた第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールの2名の優勝者の一人に辻井伸行さんが選ばれました。
その後NHKや民放のニュースで取り上げられて、その演奏の一部を私も耳にしました。
辻井さんは視覚障害というハンディがあるのですが、彼の演奏は当然、生まれついての障害を感じさせるものは微塵もなく、
明るく澄んだ音色が耳に心地よいくらいです。

  先々週だったか、生協さんに注文したCDが届き、早速聴いてみました。
曲目は予選リサイタルからショパンの12の練習曲Op.10より、第一番から6番まで(第3番が「別れの曲」として知られている)とリストのパガニーニによる大練習曲より第3番「ラ・カンパネラ」とメインがセミ・ファイナルで演奏されたベートーヴェンピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」Op.106 、そして最後が同じくセミファイナルでのコンクール委嘱による新作課題曲ジョン・マスト作インプロヴィゼーション(即興曲)とフーガ。

音楽素人にはベートーヴェンのハンマークラヴィーアは難しいというか、ただ長くて捉えどころがない曲のように聞こえて弾き手によっては退屈(こちらの受け止め方の能力不足は重々承知で…)なんですが、さすが辻井君のは、変幻自在、ドラマチックな演奏で聴かせてくれます。

ところで、このヴァン・クライバーンには思い出がありまして、高校時代、土曜日ごと学校が終わると食堂でお昼を済ませて、そのまま北千里の英語の先生のお宅へ通っておりました。その先生が使っていた英語の教材が当時アメリカを知る上で欠かせなかった(と思う)「リーダースダイジェスト」というあちらの本でした。その中で前年の1958年の第一回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したヴァン・クライバーンが取り上げられていました。今と違って冷戦下の敵国?ソ連の主催するコンクールで23歳のアメリカ人が優勝したので大騒ぎでした。そのエピソードが紹介されていたので、よく覚えています。この優勝を祝して1962年より原則4年ごとにテキサス州のフォートワースで国際ピアノコンクールが開催され、今年はその13回目だったということです。


余談になりますが、この英語のK先生は私にとってはその当時の憧れでもあり目標でもありという存在でした。中学2年の時、母がご近所の知人の息子さんの家庭教師だったこの先生を見つけ我が家にも寄っていただくようお願いしてくれました。教育熱心だった母の有り難さはその頃充分解ってはいなかったのですが、今では本当に感謝しています。当時の憧れの大学でもあった津田塾出の先生のご主人は英国海軍の軍人(元?)さんで、先生の話によりますと大恋愛の末の略奪婚になってしまったとか。お相手にはイギリスに妻も子供もあったそうです。

時々、応接間に通されて、先生自ら焼かれた珍しくて美味しいパウンドケーキをご主人(当時の私にはご老人に見えました)と一緒に三人で戴くこともありました。イギリス風の生活スタイルと外人さんに直に触れた最初の体験でした。庭から出入りする勉強部屋の窓の上には額縁入りのシェイクスピアの墓石の拓本が飾ってありました。お庭も、門を開けるとすぐ水仙があちこちに植わっていて、「イングリッシュスタイルよ」と仰っていました。この先生のお蔭で私の発音はイギリス風、夫はモルモン教会宣教師仕込みのアメリカ風で、大学で初めて聞いたときは夫の英語を「野卑」(ゴメン!)と感じてしまったものです。

私の上の子が小学4年生になって、地域の子供会のソフトボールに参加、その指導者がどんな子供でも毎日、投げる、受ける、打つの基本をしっかり身につけ、連係プレーの訓練を受ければ必ず上手くなる、運動能力に関係なくどんな子供でもある程度のレベルでゲームを楽しめるまでに出来るという信念で監督をされていました。子供たちに毎朝、近くの公園で30分の練習をさせて、その結果、言葉通り、身体も大きくなく運動能力もごくごく普通の子供たちが2,3年で市の大会で優勝してしまいました。子供会の世話役として練習の様子を見ている内に、中学時代3年間ソフトボール部でショートを守り、顧問の先生の熱心な指導で大阪府下ベスト8まで行った記憶が甦ってきました。身体を動かす事の楽しさ、チームの役割を分担しながら自分のポジションで全力を尽くして皆と一緒に何かを成し遂げる楽しさを思い出しました。

私は長男の同級生の父親でもあるこの監督さんの指導方針にとっても共感し、あれを英語で出来ないかと考えました。中学生の初めての英語、どんな子でも好き嫌いに関係なく、英語を学ぶことが楽しい(かつての私がそうであったように)と思えるように基本から手を抜かないで教えられないか、やってみようと思いました。年末、年始を胃の手術のため病院で過ごしたその年、そう決心しました。そして、このK先生を何十年振りかであの北千里のお宅に訪ねました。

先生は使っていた教材の教科書を譲って下さって、「ご主人にさびしい思いだけはさせないように気をつけなさいね。私は庭に塾棟まで建てて、沢山の生徒さんをとって、夜、昼、教えることに一生懸命になっていた間、彼は寂しかったみたい。可哀想な事をした。」と言われました。お別れの時は「あなたはいい先生になりますよ」と励ましても下さいました。その後、ご主人は晩年、癌を患って、最後は寝たきり状態、先生が航空会社と交渉し、その状態でイギリスまで連れていかれ、ご主人は希望通り自分の子供たちの所で亡くなられたそうです。

先生ご自身も、原爆手帳を持っておられて、そのせいだったのか、その後、膠原病を患い、「治療で視力か聴力のどちらかを失うと言われ、私は耳より眼を残すことを選んだの。聞こえないから、筆談でね。」と、お見舞いに伺った時、メモ帳を差し出しながら言われました。「誰にも頼らず独りで生きていけるようにとキッチンも部屋も、車椅子仕様に改造したのがいけなかった、病を呼ぶのね。」とも言われていましたが、あの時が先生との最後のお別れでした。


すっかり余談が長話になってしまいました。元に戻って、ヴァン・クライバーンのお話でした。
お茶のみ仲間のお一人からいつもお借りしている「いきいき」の11月号を先日受け取って、読みだしてみましたら、タイミングよく、辻井いつ子さん=辻井伸行さんのお母さんが特集記事になって取り上げてあり、伸行さんのことを語っておられます。この母にしてこの子ありなんですね〜
その中で特別嬉しかった個所を紹介します:

最初に、伸行の音楽への特別な反応に気付いたのは、生後8か月のときです。ショパンの「英雄ポロネーズ」が大のお気に入りで、この曲をかけると、手足をバタバタさせてリズムをとるのです。あんまり何度もかけ続けたので、CDに傷がついてしまい、新しいCDを買いました。けれど、新しいCDは何度聴かせても、機嫌がよくならないんです。それで、以前のCDとよく見比べてみると、ピアニストが違っていました。以前のは、スタニスラフ・ブーニン。新しいほうはサンソン・フランソワが演奏していたんです。急いでブーニンのCDを買って聴かせると、伸行はすぐに上機嫌になりました。それで、彼の耳がとても優れていると確信したのです。

「いきいき」の記事から経歴を引用してみますと、この後、一歳でピアノのレッスンを開始。7歳で全日本盲学生音楽コンクール1位。8歳でモスクワ音楽院大ホールで演奏。10歳で大坂センチュリー交響楽団と共演。14歳で佐渡裕指揮でパリで演奏会。17歳でショパンコンクール一次予選通過、二次で落選するも、4回ものカーテンコールを受け、「批評家賞」受賞と、輝かしいキャリアが続きます。1988年生れのまだ20歳で、今年、このヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝。現在上野学園大学演奏家コース在学中。このコンクールは「プロの演奏家として出て行く準備が出来ている人」を選んで送り出すと言われていますので、これからの辻井伸行さんの活躍が本当に楽しみです。

ところで、ファンとして嬉しい箇所、ブーニンショパンの演奏が最初のCD体験だったのが良かったのですね〜 
ブーニンの演奏はリズムがハッキリしていて、メロディが美しい。一音も漏らさず神経が行き届いた演奏!
きっかけがブーニンのピアノだったというお話は初めて!! 
ブーニンも1985年のショパンコンクールが衝撃のデビューでしたから、
もう、あの演奏でこういう若い世代が生まれているんですね〜
あれから、24年!です。 胃の手術をして3年後のブーニンとの出会いでした。 光陰矢の如し・・・