「日本と朝鮮半島2000年」第5回渤海

録画の第5回「日本海の道〜幻の王国・渤海との交流〜」
番組内容を私なりにまとめてみました:「698年から926年まで、朝鮮半島の北、中国の東北部に渤海国があった。
長野県木島平の根塚古墳。弥生末期から古墳時代の遺跡から発掘されたものの中に、鉄剣がある。山裾の古墳だが、千曲川を下って新潟へでれば海まで直線距離30kmだという。また韓国では4世紀(C)の翡翠の勾玉が見つかる。韓国では翡翠は取れないのでこれは糸魚川産の翡翠。また5Cのものとして若狭(福井県)の脇袋古墳群では5Cの金の王冠の飾りの一部が出土、これも同じものが韓国に。ほかに馬具飾りも。これは当時半島の南にあって百済新羅に対抗していた大伽耶のものである。バーター取引があったと見られる。
それ以前の4C、半島が戦乱になると、それを避けて日本へ移住した者も。6Cには後の継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)が越前で新興勢力として力をつける。越の国(越王国)と呼ばれるこの北陸の勢力は山の上に全長140mの前方後円墳を残している。また、当時大和朝廷と敵対関係にあった新羅で角杯が見つかっている。若狭には同じ角杯を焼いた跡がある。当時、日本海側の地方豪族は大和政権に服属しつつ大陸・半島と独自の外交ルートを持って交流していたことが分かる。
507年には男大迹王は大和に迎えられ継体天皇となり、百済を重視し、交流が盛んになる。金の耳飾が出土しており、日本で一番早い時期の物。百済を通して中国文化を取り入れた。出土した埴輪には帆掛け舟の絵が描かれている。この船で儒教の専門家・五経博士を迎えていたのだ。

奈良時代の初頭の727年に渤海の使いが軍事的支援を求めて日本に来たことが「続日本記」でわかる。当時新羅が唐と組んだ時代で、日本は渤海と関係を結んで環日本海交流をしていた。東アジアの地図を逆さにして日本を上、大陸を下にすると日本海は大きな湖に見える。ゲストの韓国の学者さんは、さりげなく韓国では「東海」と呼んでいましたがと。確かに無理なく納得できます。内海の対岸にあるような日本海側の各都市は大陸・半島とウンと近くみえます。

さて、渤海国は9Cに最盛期を迎え、今のロシアのウラジオストックの近くに首都があった。農耕社会と狩猟社会の中間にあって、交易立国であり、シルクロード沿線国家であったともいえる。唐と新羅との関係が不安定な頃、渤海は日本との安定した関係を求めた(727年)し、日本も唐に対抗して新羅とも関係が悪くなったので渤海と手を結ぶことに。奈良ー平安時代には出羽の国、秋田城跡から鉄製の釜やトイレの跡が見つかり、寄生虫から豚を食べていたことまで分かっている。771年には325人の、その後は100人を超える大使節団が遣ってきた。
8C、唐で内乱が起こり、この為、唐と渤海の軍事的緊張関係が和らぐと、日本とは平和的・文化的関係が続くことに。交易は盛んになり、毛皮や朝鮮人参、唐の最新の暦であり江戸時代まで使われた宣明暦も入ってきている。727〜919年の間(894年、菅原道真によって遣唐使廃止)に唐との間をうめるように頻繁に34回もの使節が往来した。日本からは生糸や、金・銀などが、渤海からは皮が日本へ。9月中旬からは北西の風に乗って日本へ、5月からは南風に乗って帰るという航海で、陸路より安全だったよう。
渤海は商人層が発展、交易を重視し、日本との平和的な200年の関係の後、926年、遊牧民族契丹に滅ぼされた。
日本海の地方で自治体主導の地域間交流が盛んであったこの時代は学ぶところ大で、翡翠に代わり現在発信できるものが何か?が課題」以上。
若い頃東京で過ごし、その後、小松製作所に勤務していた加賀市の私の従兄弟が、もう2,30年も前に話していた夢物語を思い出しました。黒部峡谷が一大観光資源で中国や朝鮮半島から沢山の観光客を呼ぶんだという「ホラ話」(その時はそう思って聞いていた私)でしたが、今から考えると、あれはこの時代、環日本海の地域に生きた日本人の血を引く人間の発想と誇りだったんだと今更ながら・・・