「日本と朝鮮半島2000年」(第8回朝鮮出兵/文禄・慶長の役)

お正月にNHKが一挙9回分再放送した内、私が録画したのは、4回〜8回ですので、これが最後になります。
やっと、お正月早々の宿題が終わりそうです。かなりしんどい作業でしたが、私にとって近くて遠い朝鮮半島の歴史がやっと少し見えてきました。韓流ドラマはパスしてましたし、映画も「いいよ」と勧めてもらった物だけ1,2本見ただけでしたので、不勉強もたたっています。ブログのタイトルの「朝鮮出兵」は私が習った頃の日本史ではたぶん「豊臣秀吉朝鮮出兵」だったのではないかと思って、敢えてそちらに。NHKの方は侵略を使っていますし、こちらが正しいと思いますので本文では使いません。それでは今まで通り、私なりに内容をまとめてみます。要領よくまとまらないのも今までどおり。

第8回  〜豊臣秀吉朝鮮侵略
レポーターは「韓流ドラマにはまって留学までした」という2度目の大桃美代子さん。
話が始まる前に日・中・韓のおさらい。
1392年、南北朝合一、1467年、応仁の乱、戦国時代に入り1590年、豊臣秀吉が天下統一。1592〜98年「文禄・慶長の役
中国ではそれより以前、1368年、元が滅亡、明、建国。
韓半島でも、1392年、高麗が滅亡、朝鮮、建国。その後、明には朝貢関係、ゆるやかに服属。1592〜98年「任辰(イムジン)倭乱」
1592年:文禄の役天正20年4月13日)。 九州名護屋城から18000人がプサン城を襲い半日の戦闘で勝つ。朝鮮側死者3000人。「トンネ(東菜)府殉節図」には城が日本兵に囲まれ、城主が死を覚悟して真ん中に座って北方の国王に礼を尽くしている姿や、瓦を投げつけて抵抗している女性たちも描かれていて、最後まで日本兵に抵抗した死者9000人。日本勢の圧倒的勝利は、4年前、地下鉄工事現場から出てきた物が示している。刀や兜など、武器、武具のほか犠牲者の骨、骸骨、など朝鮮人のものばかりで日本人の物は無かった。「町のあちこちに酷かった戦闘を伝える物が残され、それを今も身近に知りながら生活している(大桃)」。犠牲者が弔われている御所には、城主の墓碑があり、瓦を投げて戦った女性も、奴婢と呼ばれる下層の人たちも、身分を問わず同じ御所の中に祀られている。

1590年に秀吉が全国統一をすると、その年の10月から翌年の2月までの5ヶ月で、大陸出兵の拠点として佐賀県肥前唐津市名護屋城を、西国大名に命じて作らせた。17万㎡の大阪城に次ぐ大規模な城で、周辺には徳川家康小西行長前田利家をはじめ、上杉景勝直江兼継の屋敷まで。人口20万人の大都市が忽然と誕生。秀吉の目的は「唐(カラ)入り」で明を征服することそのため朝鮮半島を通過する「仮道(カト)入明(ニュウミン)」を朝鮮国王に願い出るが断られ。そこで朝鮮を征服して明入りを果たすため兵を送ることに。なぜ、明?かというと、知行地を求めて。戦争で相手を服属させると手柄のあった者には知行を与えた。たとえば加藤清正は120石から天正16年には19万石になっている。その結果、国内統一だけでは与える領地が不足、アジアに領土拡大をしようとした。高山国(今の台湾)にも服属を要求しているし、要求書には「秀吉は日輪の子(太陽の子)である」と、伝説の始祖、大陸の覇者の資格と条件があると主張している。

1592年5月3日漢城(ハンソン)陥落。この頃、高麗では平和が続き、軍事力は弱体化。官僚も腐敗、国王は首都を投げ出して逃げ出した。明に援軍を頼むも、余りの逃げ足の速さに明は不信感を持つ。日本と結託して攻めてくるのでは?と思ったか、明は動かず。秀吉の本当の狙いは? 関白秀次宛の朱印状に「大唐都へ叡慮(エイリョ=天皇)うつし申すべく候」と書かれていることから、天皇を中国皇帝の位につける野望を持っていたことが分かるが、その動機は?「知行地だけではなく、別の要因も。大航海時代の影響をうけたのでは。武器は鉄砲が発達。意識もインド・中国・日本の仏教思想の世界観が変わったのでは、ヨーロッパが誕生して別の考え方もあると。」と九州大学大学院教授中野等氏(=N)の解説。
一方、朝鮮はなぜ簡単に負けたのか? 「儒教教育の影響で安定した平和な国家を築いていて、周りの世界が全く予想できていなかった。15C初頭の朝鮮で使われていた地図を見れば分かる。真ん中に巨大な明があり、中国は太陽、惑星が朝鮮。日本は海の中の取るに足りない小国。文明国だとは思っていなかった。」と韓国の大学教授(=K)の解説。一方、秀吉の世界地図は明・韓・日の大きさも位置もはるかに現実に即していたようだ。しかし、秀吉の国境感は明も朝鮮も戦国大名扱いで、朝鮮王に対して日本の朝廷に参内するよう要求していた。

1592年5月7日玉浦(オクポ)の海戦。さて、ここで、戦局が変わる局面を迎える。朝鮮の反撃が始まる。漢城(ハンソン)陥落の4日後の7日。プサンの南オクポの海戦で藤堂高虎加藤清正が乗り込む日本水軍がイ・スンシン(李舜臣)将軍率いる朝鮮軍に敗れた。国宝になっているイ・スンシン将軍の戦いの日記「乱中日記」の水軍集結の日の記述には「憤激、我が身を忘れる程」とある。イ・スンシンのとった新戦法の亀甲船とは復元によると、船全体をケッパンという板で覆い、弾丸から護り、屋根にキリを突き立て人間の襲撃を防ぎ、大砲8問と弓矢で複合的に戦い、先陣を切り、敵の船を破壊する。日本は安宅(アタケ)船といって、相手の船に乗り移って戦う。1592年5月29日、イ・スンシンは日本水軍を破り、英雄となる。「不滅のイ・スンシン」というドラマは国内30%の視聴率で、原作ともなった「弧将」は日本語にも翻訳された。

翻訳したのは北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さんで、初めての仕事。最初は日本で読者に読まれるのか心配したが、内容はそういう話だけでなく、よく泣き、怒り、心配し、どうやって死んだらいいのかと考える人間らしい人間を描いたものであった。「北と南で捕らえ方が違いますか?」という質問に。「南では大英雄。民族の精神や大国の中の小国の生き方を学ぼう、という民族的英雄。北では体制が違う。階級性、非搾取者や圧迫された者が立ち上がる姿が英雄視されるが、その点、イ・スンシン(李舜臣)は科挙で登用された支配階級の一人とされているので、南ほど大きく取り上げられないとの事。

1592年7月7日関山島(ハンサンド)海戦李舜臣は日本軍を鶴翼の陣で迎え撃つ。日本の船60隻は両翼に囲まれて沈没、制海権を失う。これに呼応するように陸でも義兵闘争。民衆が組織化され義兵となった。半島の南西部=全羅道(チョルラド)は穀倉地帯。ここに入れず食糧を現地調達していた日本軍は立ち行かず。また、後陽成(ごようぜい)天皇から届いた手紙には「高麗国への下向は多難。秀吉自ら強行するのは恐れ多いこと」と反対される。その上、一度は追い返された明が再び押し寄せる。戦争の記録には「4万の兵を送り、切り殺し、焼き殺された日本兵甚だ多し」とある。「抗倭援朝」の「援」は、韓国の大学教授の解説によると、真の参戦目的は自国の利益を護るためだけであって、今朝鮮の日本勢を追い返しておかなければ北京が危ないが本音。

1593年1月7日日本勢敗退。いよいよ秀吉の「唐入り」という領土拡張計画に暗雲が。その理由は明の参戦、各地の義兵闘争、イ・スンシンの水軍の3つが。元々、半島は明征伐の兵站補給地、8道に大名を派遣して抑えようとしたのが、反発を生み、義兵活動を生み出してしまった。その上、天皇の奉書で、明に天皇が行くという大義名分もなくなって、秀吉の三国(インド・中国・日本)平定の夢は破れる。後は、この戦争をどう終わらせるか。
 つづく