「日本と朝鮮半島2000年」(第8回・豊臣秀吉の朝鮮侵略)つづき

1592年〜1598年まで、日本では秀吉の朝鮮侵略文禄の役」と「慶長の役」、朝鮮では「壬辰(イムジン)倭乱(ウエラン)」
第一回の戦争、「文禄の役」は1952年5月から始まり、やがて、明が参戦、その後、国内では朝廷からも反対され、半島の民衆の抵抗もうけ、1593年1月7日の日本勢敗退以後は、どうやって、この戦争を終わらせるかが問題となった:から「つづき」

明の参戦は「朝鮮半島に日本が勢力を拡大することが中国の安全保障に直結することを朝鮮は歴史上初めて知ることになった」(韓国の大学教授=K)「日清戦争も同じことで、東アジアの歴史において、朝鮮半島が日本と中国の二つの利害関係が衝突する地域として初めて浮上」「19C末の日清戦争でも、日本が朝鮮半島を圧倒したので、朝鮮は自分の領土ではないが、日本が朝鮮を支配することを清は許せなかった」「壬辰倭乱(イムジンウエラン)の戦争で東アジアの歴史において朝鮮半島が日本と中国の二つの利害関係がぶつかる地域として初めて浮上した」=K

平壌ピョンヤンでの明の勝利のあと、漢城(ハンソン)北部で明は敗北していた。これをキッカケに明は講和の道を探ることに。明の参戦目的は平壌で達成されていたので、後は適切なラインで収めるつもりであった。一方、秀吉の方は、7つの条件をあげていた。明国皇女を妃にする、明との勘合貿易を復活、朝鮮王子を人質を差し出すこと等であったが、さらに今支配下にある朝鮮8道の内南4道を朝鮮国王に捧げるとした。これは、明支配を断念、朝鮮半島南4道の支配に方針転換したことを示す

この南4道支配を既成事実化するため、大名に城を作らせた。日本式の城は倭城と呼ばれ、その跡地は30箇所にも及ぶ。どの城も物資の運輸の便の良い川や海の近くに築かれた。加藤清正の西生浦(ソセンポ)城は代表的な存在で15万平方mもあり、海抜200mの頂上に本丸があり、高さ6mの城壁に囲まれていた。朝鮮の石垣は垂直なのに比べて、倭城の石垣は斜め(60〜70度の傾斜)になっているのが特徴。「勝ち戦さ」と考えている秀吉にとっては、講和交渉の明の使節は降伏の使節であった。勝った証に「領土と人質」を要求していた。交渉地を日本から北京に移したが、双方共に相手が降伏した形で終結を願ったため、膠着のまま3年が過ぎた。1596年9月、使節が持ってきた皇帝の勅諭「明神宗勅諭」には秀吉を皇帝より格下の「日本国王に」奉ずとして、秀吉の要求には応えていない。資料「イエズス会年報」によると、「朝鮮にある城の取り壊しと軍の撤退を要求」された秀吉は激怒。「非常な憤怒と激情に燃え上がり、頭上から湯気が生じる程」だったという。

秀吉は1597年2月、14万の兵を送り、再攻撃、「慶長の役」が始まる。
今回の目的は、もはや「唐入り」ではなくて朝鮮南4道の支配であり、戦闘は文永の役以上に凄惨を極め、残虐化した。悪名高い鼻きり、耳きりである。「鼻受取状」まで出され、手柄のために生きている人の鼻まで切ったという。

1597年9月15日、ミョンリャン(鳴梁)の海戦 ミョンリャンは潮流の激しい海峡で、朝鮮で唯一の潮流発電所があるくらい。日本軍は満ち潮で進んで、引き潮で攻撃され、前進できず。イ・スンシン(李舜臣)隊が戦いを制した。朝鮮水軍の戦闘を支えたのは漕ぎ手で、戦闘員の4,5倍も。李舜臣の「乱中日記」によると、漕ぎ手には朝鮮の「海の民」と「降倭」がいたという。「降倭」とは長期化する戦争に疑問を感じて朝鮮に投降した日本人のことである。「倭城に蹴鞠のコートや茶室を作らせた殿様もいて、嫌気がさした日本の兵卒がいたようだ。裏切りというよりは、どう生きるかの選択であった。」(=日本の研究者) とりわけ激しかったウルサン城の攻防戦では、明と朝鮮軍に退路をたたれた清正勢はろう城、多くの餓死者が出たという。従軍した日本人僧侶の日記には「地獄とはよそにあるのではなく目の前に」と記されていたという。

ここから解説に入り、「朝鮮はこの講話交渉に参加させてもらえなかった。明は自分たちの安全のみを考えていて、朝鮮がどうなろうと関係ないと早期の撤退を考えていた。朝鮮は不幸にも二つの大国に挟まれた弱小国の苦い経験を味わった」=K
朝鮮侵略の1回目と2回目は全く性格が違う戦争であった。「文永の役」では半島は兵站基地として社会の再生産能力を温存、それに依存して進めるというものであったが、2回目の「慶長の役」では南の社会的な力、日本への抵抗力を失くしてしまう戦争であった。山に逃げたヤンパンというリーダーを日本側に売ることを求めたりして、(耳きり、鼻きりで身体的に傷つけるだけでなく、)心の中まで刃を突っ込んでいくようなやり方だった。」=N
K=「それだけにとどまらず、その後、日本人への怨恨が民衆に深く残り、壬辰倭乱の傷跡がどんなものかが今に伝わって、後の植民地時代の支配と合わさって、日本と韓国の関係を肯定的に見られなくなったのが最大の影響」

1598年8月18日、伏見城にて秀吉62歳で死去。死の2週間前、重臣を呼んで秀頼への忠誠を誓わせたが、戦争の終結については記録は残っていない。日本勢は秀吉の死を隠して撤兵。イ・スンシン(李舜臣)は撤退を阻む海戦で死ぬ。彼の墓碑には韓国人なら誰でも知っているという「今は戦いの中にあるので自分が死んだ事は言ってはならない」という意味の漢文で「戦方急 慎勿言我死」と書かれている。祀られている祠に掛かっている額には「大星隕海(海に落ちた)」と。朝鮮を侵略から救った英雄は平和が甦ったことを知ることなく死んだ。

この後、日本は1600年、関が原の戦いで豊臣方は破れ江戸幕府が開かれた。朝鮮は弱体化、国土が荒廃した。日本軍は引き上げるときに朝鮮人を連行。技術や知識を持った職人が狙われた。また江戸時代に朱子学に影響を与えた儒教の学者たちも。「被虜人」と呼ばれ、多くは厳しい労働につかされ、港湾や都市の下働きをさせられた。江戸時代に始まった朝鮮通信使の最初の任務はこれら「被虜人」を連れ戻すことであった。しかし、連れ戻された人々は「日本人に捕まったこと自体が裏切りだ」という考えで、中には日本軍と共に戦った者もいたとして、「万死に値する」とされ、アフターケア無く放置された。中国明も経済的損失が甚だしく、重税に苦しむ民衆が各地で氾濫、1618年に後金が清王朝を作り、1644年に明は滅亡、清へ。多大な損失をもたらした7年間の戦争は勝者なき戦争であった。

儒教思想に基く中国的世界秩序は崩壊、此れだけでは東アジアは統合できない状況になった」「中国が強大なときは朝鮮は独自外交は出来なかったが、、明が弱くなると朝鮮通信使という独自の日本と直接的な外交が可能になった。これは驚きだ。」=K
「民衆にとっては国家は問題ではなかったのではないか。脱国家、脱民族という動きが朝鮮側にも日本側にもあったと思う。朝鮮のために戦った日本人も、自発的か強制だったか分からないが日本軍とともに戦った朝鮮人もいた。国家を前提に、国家を超えて複眼的に、民衆の視点でこの時期を見る必要があると思う」=N

有田には「陶祖李三平」が祀られている。日本の焼物の歴史を変えた人物である。朝鮮陶工が連れて来られるまで、日本で焼物といえば陶器のみであった。1610年代、肥前で白い土がみつかり、磁器が焼かれるようになった。日本で一番古い磁器有田焼の誕生である。陶祖と言われる李三平の末裔である金ケ江三兵衛氏は、韓国で個展を開くなど日韓交流の架け橋となって活躍している。
白い土の白い焼物は儒教尊いとされる白であり、チマ・チョゴリの白も最高の色とされる。
陶祖が日本で見つけた有田焼の白い土は今も白い輝きを放っている。」 以上。


気の重い長い7年の歴史でした。秀吉の「朝鮮出兵」の本当の目的が東アジアを支配する、三国(印度・中国・日本)を統一して天皇を北京へという、壮大を通り越して誇大妄想的な発想をしていた、とは知らなかった! 豊臣恩顧の家臣ばかりでなく、徳川家康や景勝、兼継までも九州の名護屋城に詰めていたという。豊臣秀吉の天下統一後の全精力がこの朝鮮侵略にあったというわけですから、徳川の時代・江戸時代が外交に関しては、この反発、反動、反感、反省でスタートしているはずです。だから鎖国であり、参勤交代であり、・・・、そして朝鮮通信使であったわけですね。やっと繋がってきました。