「日本と朝鮮半島2000年」第10 回"脱亜”への道(2)

第10回 ”脱亜”への道〜江華島事件から日清戦争へ〜 前回(2月3日)の続きです。緑字は私の感想。
日朝修好条規(1876年)以降、朝鮮王朝では国王のコジュン(高宗)が実権を握り、近代化を目指した。1876年、第1回修信使使節を日本に送り、文明開化を目の当たりにした。汽車やマッチに驚き日本の文物を学ぶ人が増え、人民の権利を打ちたてようという人も生まれた。
日本でも近代化を目指す朝鮮に関心を寄せた人物の中に啓蒙思想家の福澤諭吉がいた。
「異客相逢君莫驚」=変わった格好をした客人(民族服の朝鮮修信使)を見ても驚くなかれ=とは福澤の感想で、幕末に使節の一員として欧米を訪れ、西洋文明に驚嘆した20年前の自分を重ねて見ていた。福澤は「学問のすすめ」で「天は人の上に人を作らず、一身独立して一国独立す」と近代思想を広めていた。自ら創設した慶応義塾に朝鮮留学生を受け入れてもいた。
朝鮮王朝の近代化改革:去年ソウルである施設の跡が発掘された。1881年に創設された別技軍の軍事施設の跡だ。
別技軍というのは日本の陸軍の将校を教官に招いて訓練を行った朝鮮最初の洋式軍隊。旧式軍隊とは別に、日本に倣った軍制改革が進められた。文明開化に関心の高いコジュン(高宗)は日本に詳しい人材を求め、その中に後に開化派といわれる官僚のキム・オッキュン(金玉均がいた。
1882年、キム、31歳の時、福澤のもとを訪ね、朝鮮の改革を語り、福澤も大いに賛同、政官財の大物、井上馨大隈重信渋沢栄一を紹介する。
福澤が創刊した「時事新報」第10号の論説では「朝鮮ノ交際ヲ論ズ」と題してこう書いている。「西洋人が東洋に迫ってくる。朝鮮国を朝鮮人が支配すること憂(うれい)とせざれども 万に一も之を西洋人の手に授(さずけ)るが如き大変に際したならば如何(いかん)。あたかも隣家を焼て自家の類焼を招くに異ならず。日本国が支那の形勢を憂い 又 朝鮮の国事に干渉するは 日本自国の類焼を予防するものと知る可し。」
キム・オッキュンは「甲申日録」に自ら「日本は朝鮮を独立国とみなしてくれた。私は日本の本音がどこにあるかを探り、信じても良いと思い、頼ることにした」と述べている。トングク大学の先生の考えは「キムは日本の狙いは分かっていたが、独立に手を貸してくれる国は他になく、日本の手を借りて近代化、独立を成し遂げた後、独立すればよいと考えた。日本を利用して自主独立を考えた。」
この頃、清は、1874年の台湾出兵、1875年の江華島事件、1879年の琉球処分と続き、危機感を抱き、軍の近代化・拡大を図った。
北洋大臣の李鴻章は欧米から宗主国である清を守る役割=西洋から清を守る砦=を属国に期待していた。特に、中国東北部と接する朝鮮には今までどおりの宗属関係が望ましいと考えていた。一方、日本の陸軍参謀の山県有朋は軍拡を進めようとした。朝鮮国内では、親日派と親清派(反日派)の対立があった。この頃、朝鮮では開国で米を輸出するようになって国内の米が減り、米価が高騰、民衆を苦しめ、日本公使への投石があったりした。
1882年 壬午軍乱
新式軍隊の日本人将校が旧式軍隊の兵士に殺されて、日本公使館が包囲され、公使が自ら火を放ち脱出するという事件が起こった。
デ・ウォングンはこの暴動を利用して権力を奪い返そうとする。朝鮮王朝は清に援軍を求め李鴻章は暴動を鎮圧し、デ・ウォングンを連行。この事態にキム・オッキュンは日本から帰国、駐留する清の大軍を見て、いよいよ清とは手を切らなければと考える。福澤は「日本人を殺傷殴打し、斥攘(せきじょう)の実を行わんとする者は皆農商民なり。昔日、日本の攘夷論は政府の説なり、今日、朝鮮の斥攘論は人民の説なり。政府の説は之を改むること易し、人民の説は之を改むること難し。」政府が騒ぎを押さえられなくて、清国に頼んで押さえてもらい、それを人民が歓迎している。民衆を変えていくのは大変だと考えた。
清の軍事介入を招いた「壬午軍乱」を機に朝鮮王朝では今までにも増して親清派(反日派)と親日派(改革派)の対立が激化、表面化した。
2ヵ月後、国王コジュンは謝罪を兼ねた修信使を送り、キムオッキュンは顧問として再び日本へ。この時、朝鮮王朝は自主独立の国として外国で初めて国旗・大極旗を神戸の西村旅館に掲げる。 福澤を訪ねたキム・オッキュンに改革の難しさと教育の大切さを説く。開化派は首都ハンソン(漢城)中心に新聞を発行。福澤は慶応義塾の門下生を編集、印刷の支援に派遣。1883年発行の「漢城旬報」は朝鮮で初めての近代的新聞で、周辺国の情勢や地理、各国の議会の様子も伝えた。3000部発行され、開化思想の普及につとめた。
キムは独立達成の為資金集めに奔走、井上馨外務卿に訴えるも「朝鮮が完全に独立すると清と戦争になる」と反対され資金援助は受けられず。
ところが、状況一変の事態が。1884年清仏戦争:フランスと清の間に戦争が。福澤の新聞も「もはや清は力を失った」と、欧米列強に分割される清を地図に示して予測した。日本公使は「いまや清仏関係は急変し危うい。もし貴方がたが國の為に改革の挙に出ればわが政府も不可とはしない」と語ったという。キム・オッキュンは日本の外交方針が変わったと判断し、コジュンに伝え、コジュンもまた独立を図ろうとしていた。
1884年(明治17年)甲申事変
近代的郵政事業を始めるための郵政総局の開局を祝う祝賀会の席で、キム・オッキュン達は清を頼る勢力を実力で排除するクーデターの計画をたてていた。王朝の高官をはじめ、各国の公使館員たちが列席する中、別の宮殿の建物で火の手が上がり混乱に乗じて親清勢力を殺害。キムはコジュンに日本に出兵を求めるよう説得、コジュンは「日本公使が来て護るよう」詔書を発行。駐朝日本公使竹添進一郎は約140人の日本兵と共に王宮へ。ここに新政権が発足。新政権は14か条の政令を発した。第1条はデ・ウォングンの帰還を求めるものであった。清への朝貢を廃止し清からの独立を最優先し、門閥を廃止し身分のわけ隔てなく人材を登用、税制改革、巡査を置いて窃盗を無くすなど、日本を見習った制度改革を目指すものであった。
しかし、清は1500人の兵士で王宮を包囲、政変から3日後、清軍は王宮へ攻撃を開始。日本は防戦し切れず開化派は殺害され、キム・オッキュンは日本に亡命。クーデターはわずか3日で失敗に。
トングク大の先生の解説では「当時朝鮮は民主主義国家ではなく国王の力が絶対だった。民衆は改革、近代化についても正しい認識はまだ持たず、キム・オッキュンも民衆の啓蒙には時間がかかるので、国王を説得して国王を動かして改革を進めた方が民衆も理解し自然についてくると考えた。それが上からの改革の利点でもあり限界でもある。」
福澤は後に甲申事変への関与を否定。しかし其の衝撃は大きく「時事新報」の社説に「脱亜論」を発表する。「主義とするところは唯脱亜の二字に存すのみ 我国は隣国の開明を待て 共に亜細亜を興す猶予ある可からず。其支那朝鮮に接するの法も 隣国なるが故とて特段の会釈に及ばず 正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ。」と突き放している。
日本の学者(県立広島大教授)の見解は「基本的には宗属関係下にある東アジアに負けたということ。福澤は民衆の自立に期待したが、甲申事変のリーダー達を育て切れず、甲申事変で挫折した。撤退宣言です。」

このあとの4人での話し合いと日清戦争までは次回に。つづく

脱亜論の前に、福澤諭吉が朝鮮王朝の一官僚のキム・オッキュンとこんなに深い関わりを持ち、大勢の留学生を慶応義塾に受け入れ、朝鮮の近代化をおし進めるために助力していたとは知らなかった。しかし、「時事新報」第10号の社説の内容、「隣国が火事になったら類焼する恐れがある。中国(支那)情勢を心配し、朝鮮の国事に干渉する(関わる?)のは、ただ類焼から日本を守るためだ」が、福澤の本音だとしたら、ずいぶん割り切った考え方を最初からしていたのだな〜と思ってしまう。でも、福澤諭吉の自立論からすると、朝鮮王朝が自立する為の援助はするが、駄目となったら(清との従属関係から抜け出せないなら)日本は西洋列強並みの対処の仕方をするまでというのが脱亜論だったと理解できる。
朝鮮半島は、秀吉の「朝鮮出兵(侵略)」時は目的の中国(明)への通り道であったし、今回はまた日本にとっては西欧列強が大陸(清を中心とする東アジア)を支配した時の防波堤、大火のときの防火壁であり、清中国にとっても東から迫ってくる日米勢力の防波堤の役割を担わせていた。間に入った国の不幸と悲劇が思いやられる。位置的不幸と悲劇といえば、沖縄についても言えるので他人事ではありません。