古代史ドラマ「大仏開眼」後編

前編のクライマックスが最高でした!
今回は長くて複雑な経緯をかいつまんで時間内に収めるという無理もあってか、私はコスチュームプレイとして楽しみました。
読売新聞の8日夕刊「こころのページ」の「平城京を読む⑤」に吉備真備(きびのまきび)が取り上げられていました。
奈良県立図書館情報館長の千田稔氏が書き手です。現在、奈良国立博物館で開催中の「大遣唐使展」には、米国ボストン美術館から「吉備大臣入唐絵巻」が里帰り展示されているそうで、内容は「フィクションながら吉備真備という遣唐使をしのばせる」とか。
このコラムの記事を年表にして、吉備真備をたどりながら、昨日テレビ画面を写した写真を並べてみます。

717年(養老元年):吉備真備吉岡秀隆)は、阿倍仲麻呂高橋克典)、僧玄坊(=日偏のボウです)(市川亀次郎)らと入唐、
19年(ドラマでは18年)の留学生活の後、
735年(天平7年):に帰朝。大学寮で官吏の養成などにたずさわったが、
740年(天平12年):に大宰府で藤原博嗣が政府のブレインであった玄ボウや真備を除くべきとする反乱を起こした。
真備の助言で聖武天皇平城京から東国に行幸し、平城京に帰らず恭仁宮(クニノミヤ)に遷都、真備随行
(ドラマでは、反乱軍に不戦をアピールするため、藤原仲麻呂を説得して、天皇行幸の行列の先頭を歩かせる)

ドラマ後半は、これ以降。
749年(天平勝宝元年):聖武天皇は、大仏の鍍金のために要する黄金が陸奥国から初めて貢がれたことを喜び、大仏に北面し「三宝の奴」と自称。この場合「三宝」とは「仏」をさす。天皇は自らを仏の奴とみなした=この時点で、鎮護国家のための国家宗教としての仏教の枠を破り、「仏教至上主義」に舵がとられた。天皇は、仏に臣従する存在となった。(ドラマでは大仏建立に社会・経済状況から真備は反対している)

752年(天平勝宝4年):遣唐使の副使として鑑真の来日を促すために、再び入唐。(ドラマでは藤原仲麻呂が真備を中央政治から退けた)
754年:鑑真と同じ船団で、2年後帰国するが、大宰府を任地とする。

764年(天平宝字8年):造東大寺長官として平城京に戻る。(ドラマではコレ以前に藤原仲麻呂に唆されて玄ボウが皇太子を毒殺、そのご玄肪失脚)
766年:72才で右大臣の地位に昇るが、政局は、称徳天皇と法王道教の問題(ドラマではふれず)を巡って混迷極める。

ここから聖武天皇の心 察した吉備真備と題するこのコラムの締めくくり部分を引用。

聖武天皇(国村準)を継いだ孝謙天皇石原さとみ)は、上皇になって出家し、やがて再度皇位につく。出家天皇としての称徳天皇であり、出家大臣である道教が出現し、さらに法王の地位が与えられる。ここにいたるシナリオは、大仏造立に関わった聖武天皇の思想の延長線上にあるとみなければならない。(吉備真備聖武の心の奥は察しているはずである。)。
真備は、聖武称徳天皇のもとで政権の中枢にいたためであろう、称徳天皇亡き後の後継を、これまでどおり天武天皇の系譜に求め、分室真人智努(ぶんやのまひとちぬ)を推すが、藤原百川らは天智天皇の孫白壁王を擁立し、結局は白壁王が皇太子を経て即位する。光仁天皇である。真備は高齢であったこともあって、右大臣を辞する。
光仁天皇を継いだ桓武天皇長岡京に遷都するが、そこには平城京の大寺を移さなかったのは、「仏教至上主義」を警戒するための、いわば「政経分離」を考慮したのではあるまいか。

ドラマでは、聖武天皇亡き後、藤原の血筋の光明皇后を後ろ盾に藤原仲麻呂(高橋)が真備を厄介払いのように再度遣唐使として中央政界から追い出す。しかし、2年後、唐から戻った真備は最初で最後の戦いとして仲麻呂追討を決意。名実ともに孤立した仲麻呂は追い詰められて果てる。
ドラマはここで吉備真備を大写しして終わる。


ドラマでは、大仏建立は玄ボウが言い出して、聖武天皇が国家安泰のため建造に意欲を燃やし、、行基の賛同も得て、真備も建立の意義を見出す。遣唐使仲間で、権力欲に身を滅ぼし果てる玄坊も、間際に願ったとされ、又、川の流れを変えたり、橋を架けたりという公共事業をなしとげる高齢の僧・行基も、真備に大仏の完成を見届けるようにと願う。
「造立に一番反対していた真備こそが一番仏に近い。二人の僧がそういうのだから…」というこの辺りがこのドラマのメイン?