アラウンド還暦世代の二人(長光歌子&松本隆)

日経月曜夕刊で取り上げられた長光歌子(59歳)さんの記事「上」は、3日連続して「中」「下」と掲載されました。

特に「中」では、今まで知らなかった長光さんの経歴が書かれていました。それによりますと、女子トップ選手の上野(現平松)順子のファンだった父親の勧めで、神戸にあった映画館の建物の上階にあるホームリンクに連れて行かれたのが1960年の春(小3〜4の春休み)。今年世界殿堂入りした佐藤信夫コーチが現役。後に妻になる大川久美子や女優石田あゆみの姉としても知られる石田(岡本)治子ら五輪選手が揃っていた頃。

当時は氷上に図形を描くコンパルソリー(規定)があり、試合での得点配分は規定が60%、フリー40%。規定で出遅れると逆転は厳しかった。
朝5時過ぎの電車に乗って行き、規定の練習。学校が終わると夜9時まで練習した。12歳から石田と同じ、田中鉄太郎コーチに師事し、スケートにささげる生活になっていく。全日本ジュニアで優勝。全日本は最高6位に入った。

長光さんはジャンプが余り得意ではなく、日本の女子でもジャンプが72〜73年シーズンからルール変更があり、ジャンプの採点比重が増し、すっぱり引退を決意。現役最後のシーズン末、札幌で日本初の冬季五輪が開かれた。あのジャネット・リンが活躍した五輪でした。派手にしりもちをついても明るい笑顔で大会のアイドルとなり3位でした。長光さんにとっては初めて生で見る国際試合。引き付けられたのが男子9位のトーラー・クランストン(カナダ)。「男なのに踊ったのよ」。76年インスブルック五輪でクランストンは銅メダル。その後”アーティスト”と言われる男子選手が次々と出てきたので「先見の明」があった。(「中」より)

さて、高橋が世界ジュニアを日本男子で初めて制すると、長光さんは海外のコーチの元へ一緒に武者修行。「自分のところで収まる器ではない」と任せるところはその道のプロに任せる。ジャンプでは、ソルトレークシティ五輪代表の本田武史を関大に呼び寄せたり。「その結果、長光は観客の視点で客観的に高橋を見る機会を得た。」(「下」より)

フィギュアスケートの女性コーチが年齢明記で連載で取り上げられるというのも珍しいと思います。当時、隣の池田市出身の歌手石田あゆみさんのお姉さんがフィギュアスケーターだというのは北摂では?皆が知る所でした。あの頃には梅田のスケートリンクもありました。それでも、テレビを通してフィギュアという競技を親しく見るには渡部絵美さんまで、少し間があります。それより以前の頃に長光さんは現役だったということ。アラ還世代ですね。
もう一人、還暦の作詞家松本隆の番組が昨夜NHKでありました。「作詞家松本隆の40年」
副題が「青春の言葉 風街の歌」。 松本隆といえばヒットメーカーとして沢山のヒット曲があり、とくに松田聖子の「赤いスイートピー」を初めとする曲で有名。私にとっての松本隆はまず、「木綿のハンカチーフ」です。これはもう一遍の叙事詩というと大げさですが、ドラマです。高度成長期の地方と都会の男女を一枚のハンカチーフで繋いだドラマチックな物語になっていて、女性の方から別れを切り出す新しさ! でも、なんて悲しい!という。
次は「ルビーの指輪」、そしてキンキキッズが歌った「硝子の少年」。これは壊れやすく傷つきやすい青春の歌。歌ったキンキの二人も18歳。
私は特に「人間・失格」で、後の須磨の事件のA少年を先取りしたような少年ルカを演じた光一君に関心がありました。アイドルであってもニコリともしない不思議な少年でしたが、素はどこにでもいる利口で人見知りな少年でした。そのキンキの二人が30歳の記念に作詞を依頼、与えられた歌が「スワンソング」。瀕死の白鳥の最後の歌です。二人が松本氏と対談。松本氏はこの年になったら一曲、一曲が最後の歌。いつ死んでもいいように・・・と60歳の節目の年を迎えての感想を。青春時代と決別するキンキの二人に重ねての歌だったのでしょうか。
ユーミンが曲をペンネーム(呉田軽穂グレタ・ガルボ?)で書いていたというのは初めて知りました。松田聖子の一連の曲づくりに松本氏がプロデューサーとして彼女を起用したんだとか。薬師丸ひろ子さんが歌うのは久しぶりに聴きました。いい声ですね〜。そして、意外だったのが、綾瀬はるかさん! 番組欄にこの名前を見たときはナレーション?と思っていたのですが、斉藤由貴さんが務めていました。
綾瀬はるかさんは「赤いスイートピー」を歌っていました。そして、新しい「(白い?)マーガレット」は彼女のために松本隆さんが書いたオリジナル。イージーな歌い方なんですが、彼女らしさがでていて魅力的な歌になっていたようです。
両曲ともじっくり最初から聞いてみたいと思います。 何十年ぶりかで見つけたカタツムリ!