「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(2)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

最後の第五章の「太平洋戦争」、この中にも興味深い項目がたくさんあります。
例えば、「真珠湾はなぜ無防備なままだったのか?」では、魚雷攻撃の水深について、水深12メートルの浅さでは攻撃不能というアメリカ側の安心、相手の能力の軽視が原因だったと分析されます。他にも興味を引かれる箇所が沢山ありますが、私が一番関心があったのは以前からの私の疑問、「なぜ、日本人は太平洋戦争を語るとき、加害者意識よりは被害者意識で戦争を語るのか」という問題です。

真珠湾攻撃などの奇襲によって、日曜日の朝、未だ寝床にいたアメリカの若者を三千人規模で殺した事になるのですから、これ一つとっても大変な加害である事は明白です。日中戦争、太平洋戦争における中国の犠牲者は中国が作成した統計では、軍人の戦死傷者を約330万人。民間人の死傷者を約800万人。(略)徴用令で植民地からも多くの労働者が動員されました。朝鮮を例に取れば、44年までに、朝鮮の人口の16%が。朝鮮半島の外へと動員された計算になるといいます。しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受身のかたちで語られることはなぜ多いのか。つまり、「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択してきたのには、それなりの理由があるはずだと私は思います。


44年から敗戦までの1年半の間に、九割の戦死者を出して、その九割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけですね。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした。 (略)


太平洋戦争が「被害」の諸相として国民に語られる背景の二つ目には、満州にからむ国民的記憶を挙げる必要があるでしょう。終戦時200万人の日本人が満州にいた。そのうちソ連侵攻後に亡くなった人の総数が24万5400人。敗戦時の人口の8.7%の国民が引揚げを体験している。(略)

満州からの引揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連侵攻の過酷さ、開拓移民に通告することなく徹退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県が何をしたかということです。

「長野県は満州への開拓移民が特に多かった県でした。」と書かれています。
何年か前、長野県の安曇野にある「いわさきちひろ美術館」を訪ねた事があります。その時、文庫本でいわさきちひろさんの本を求めました。
その本で知ったのですが、彼女の母親が長野県の松本出身で熱心にこの満蒙開拓移民を村人たちに勧め、ちひろも44年、25歳で女子開拓団に同行、満州・勃利に渡るが、同年、戦況悪化の為帰国。疎開先である松本で終戦を迎え、戦争の実態と自分の無知を痛感。戦争協力者だったのではと自責の念に駆られ、戦争中、激しい弾圧に抗して命がけの反戦を貫いていた日本共産党の演説会を聞き入党を決意するというものでした。私は、とても他人事とは思えない感慨をもって、美術館で買った絵葉書の麦藁帽子をかぶった可愛い男の子の水彩画を眺めたのを、今でもよく覚えています。

ところが、「分村移民」という仕組みは、加藤先生によりますと、国や農林省が進めるもっと組織だったものでした。飯田市歴史研究所編「満州移民」という満州開拓移民の送出、引揚げを体験した地域の人々自身による過去の歴史の検証という画期的な本によりますと、「飯田市周辺には村人5人に1人が満州に送出された村があります。養蚕の村が世界恐慌で糸価の大暴落にあい、転業が上手くいかず1938年から国や農林省の推進する満州分村移民の募集に積極的に応募するというより、させられてしまう。その仕組みというのは、32年から試験的移民は始まったのですが、初期の移民した人々が国家の宣伝は間違いだと言い始め満州での実情が語られ始めると38年ごろには移民に応募する人が減りだした。そこで、国や県は村ぐるみ満州に移民すると、特別助成金や、別途助成金を村の道路整備や産業振興のために出すという政策を打ち出します。これに応じて、結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出している事が分かっている。」
満州移民」の中に書かれているもう一つの例・千代村のケース:「賢明な開拓団長に率いられた村々では、元の土地所有者であったはずの中国農民と以前から良好な関係を築いていた。よって敗戦となるとただちに中国農民の代表と話をつけ、開拓団の農場や建物を『全部あなたにあげます』と話し、安全な地点までの危険な道の護衛を依頼して、最も低い死亡率で日本まで引揚げられた。これは、歴史の必然に対して、個人の資質がいかに大きな影響を持つかということを正直に語っていて迫力がある」と先生のコメントです。

さて、続けて加藤先生は「日本人のなかには、過去を正しく見つめるドイツ人、そうはならない日本人、といった単純な対比はもういい加減にしてくれ、という人も多いと思います。ただ、私としては、やはり日本人が戦争というものに直面した際の特殊性というのでしょうか、そのようなものがデータとして正確に示されるのであれば、正視したいと常に思っています。」と捕虜の扱いでの日独の違いを挙げます。

「ドイツ軍の捕虜となった米兵の死亡率は1.2%。ところが、日本軍の捕虜となった米兵の死亡率は37.3%。日本軍の捕虜の扱いのひどさは突出していた。もちろん、捕虜になる文化がなかったので、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさせた側面もあったが、それだけではない。自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が捕虜虐待につながる。そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通低していた。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思う。敗戦真近の頃の国民の摂取カロリーは33年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本でなぜ? 農民には工場の熟練労働者には認められていた徴収猶予がほとんどなかった。
ドイツの国土は日本にもまして破壊されたが、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は33年の1,2割増し。国民に配給する食糧だけは絶対に減らさないようにしていた。
兵士にとっても国民にとっても太平洋戦争は悲惨な戦争でした。

こうやって、私立高校と中学の生徒さん17名を相手にした加藤先生の5日間の集中講義は終わります。
濃密な時間、先生の質問に的確に答える若い人たちの賢さに感心しながら、私も一緒に学ぶ楽しさを味わえました。
「おわりに」から加藤陽子先生の次の言葉を引用してみます:

 私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行い、さらに未来を予測するにあったては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
 そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことなのだと私は思います。多くの事例を想起しながら、過去・現在・未来を縦横無尽に対比し類推しているときの人の顔は、きっと内気で控えめで穏やかなものであるはずです。

最後の言葉は、ここから来ています:《歴史とは、内気で控えめでちょうどよいのではないでしょうか。最近、本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句(じゃっく)のものが少なくありません。
しかし、こういった類の本を読んでも、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになります。なぜなそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉(えぐ)る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。》