新宮晋の作品と「寛容」と「自衛隊」

わが街自慢になりますが、風の彫刻といわれる新宮晋さんの作品が芦原公園にあります。
50年程前までは駅周辺を除けば箕面は田んぼと畑とため池ばかりでした。
町から市になって、住宅街が増えて、公共施設が必要になった頃、ため池を埋め立ててその用地に当てました。
芦原公園は一番大きなため池でした。その3分の2ほどを埋め立てて、生涯学習センターという図書館や大小2つのホールを持つ施設と公園を作りました。その公園の一角に、一時期、箕面市民でもあった彫刻家の新宮晋氏の作品があります。
「新宮晋氏は1937年(昭和12年)、豊中市生まれで、東京藝術大学卒業後、奨学生としてイタリアに住む。
イタリア滞在中に絵画からレリーフ作品、さらに立体作品へと分野を変えたが、帰国後の作風は「動く立体作品」で一貫している。
高さ数メートのスチール製の彫刻も多く、屋外に展示されているものも多い。風や水で動いたり、光を巧みに取り入れることで、
自然との一体感を生む作品に特徴がある。舞台演出、絵本の執筆など多彩な活動を行っている。」(Wikipediaより)

風にそよぐ芦を、先の丸いステンレスのポールで表現してあります。「新宮晋 1988年」というプレートがありました。
横浜のデパートの地下に、水が小さなバケツ一杯になると水車を廻すという仕掛けのような作品を見たことも有ります。

この記事は先週テレビをつけながら打ち込んでいました。テレビで多田富雄さんの最後の言葉」を。
《長い闇の向こうに何か見えます。そこには希望が見えます。「寛容の世界」です。》:再生機械音にて。
多田富雄さんは免疫学者。「免疫系には共存という寛容の有り方がある」そうです。
五木寛之さんは「寛容は最大の武器。”寛容”があれば共存できるのだから」と。
哲学者の山折哲雄さんは、多田さんは「人間の免疫ではなく文明の免疫」についても語ったと。
私は広島の原爆死没者慰霊碑の碑文「過ちは繰り返しませぬから」に戦後の日本人の寛容の精神を見ます。
この碑文には50年代に論争があって、「過ち」は原爆を落としたアメリカにあるのだから「繰り返させない」にすべきという意見があったり、その後も色々とクレームがついたそうですが、それに対してこの碑文を書いた広島大教授や広島市長は「私たち広島市民、私たち人類が死者の霊を弔い二度と戦争をしてはならないという誓いを新たにする慰霊と不戦の誓い」と答えています。
第2次大戦の太平洋戦争では日本人は原爆の被害者ではあっても、戦争の加害者でもありました。その立場から原爆投下の加害者への寛容の精神で、人を憎まず、戦争を憎むという万民共通の人類の課題、不戦の9条の精神を世界に訴える資格を得たのだと思います。その憲法自衛隊の存在をどのように私たち自身が納得し、説得できるのか... 現に存在するモノを無視して理想を語るには時間が経ちすぎています。
矛盾の解決方法。一つは憲法改正して軍隊をもてるようにすること。しかし、それはアメリカ自身が望んでいる事であって、日米安保体制の中で日米軍事同盟の日本の役割をより積極的に果たして行く方向で、文字通り日本の平和憲法否定の道です。(自民党の公約は改憲ですので、自民党民主党の一部?)これには平和憲法と引き換えに戦後日本の再スタートを承認してきた東南アジア各国の反発が予想されるし、日本国内でも賛成多数とはならない可能性があるので非現実的な道といえるかもしれません。
もう一つの道は、平和憲法の中にあって、戦後の日本人の平和志向の願いと、現実(アメリカの要請?や冷戦体制下の極東アジアの情勢)との折り合いをつけるため、過去半世紀自民党が解釈憲法で何とか「自衛隊」の存続を既成事実としてきた歴史を活かして(逆手にとって)、今度はその自衛隊平和憲法で縛るという方法。
自衛隊が軍隊にはならず「自衛隊」であり続けること。不戦の前文を持つ憲法を生かす存在としての「自衛隊」を認めるということ。交戦権を持たない軍隊・軍隊とはいえない「自衛隊」でありつづけさせること。専守防衛自衛隊の中での文民統制平和教育をもっとオープンにして国民が監視し、文字通り日本の自衛隊となるようにすること、ではないかな〜とか・・・
多田先生の「寛容」から憲法9条自衛隊の話になってしまいましたが、考え続けてみたい問題です。