「開放と分断 在日コリアンの戦後」つづき(その2)

ルリマツリのアーチ 
さて、25日放送の第4回、今回で最後にしたいと思います。(端折る所が少なく長い長いまとめになってしまいました。)
占領期の日本、60万人近い在日コリアンの奪われた言葉を取り戻したいという民族教育への熱意がアジアの冷戦に神経質な占領軍を刺激、その結果…

アジアの冷戦は在日コリアンの祖国朝鮮半島の分断をもたらした。
1948年8月、大韓民国建国宣言。 1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が成立。1949年10月、中華人民共和国成立、ソ連と同盟、共産主義陣営に。
スターリンは「日本の状況について」で日本共産党の平和路線を批判、力による革命を訴える。1949年8月、ソビエトは原爆実験に成功、最終兵器を持つ核の時代に入る。アメリ国務省ジョージ・ケナンは日本の民主化を目的とした占領政策は非現実的で占領目的の変更を主張、「アメリカは太平洋の安全保障の為、日本を共産勢力をくい止める礎石(corner-stone)とする」と位置づける。


アメリカとソビエトに挟まれ冷戦の最前線となった東アジアで、米軍の占領政策の転換は在日コリアンの社会を直撃していく。
北朝鮮支援を明らかにした朝連をGHQは弾圧していく。GHQ外交局リチャード・フィンの「在日コリアンの現状と対策」を記した1948年8月のレポートには「日本人との危険な摩擦を起こす多くの在日コリアンは極東に置ける重大な不安定要因となっている」として、「GHQ在日コリアンの自発的引き揚げ(return to Korea)を推進する政策をとるべき。もし、連合国や他の外国人並みの待遇を認めると占領政策遂行に反する。」


和光大のロバート・リケット先生は「GHQのこのレポート作成の情報を一体誰から得ていたのか?」を突き止めた。外務省管理局長・倭島英二がフィンに報告している「倭島発言報告書」が1942年2月のフィン・リポートにある。それには、「朝鮮人に対する日本の行動の背景にある最大の動機は、彼らを日本から追い出したいという願望で、倭島によると、今の日本にはこの種の深刻なマイノリティ問題を処理する自信はない。朝鮮人への態度が定まらないのも、朝鮮人に敵意を抱くのも、元をたどれば朝鮮人を劣等と見なす日本人の国民感情の影響が大きい。」
フィンと倭島の会談の半年後の1948年8月、GHQマッカーサー宛の吉田茂首相の書簡に、「私は朝鮮人が故郷の半島へ送り返される事を欲す。今の食糧事情では余分な人々を維持できない。かなりの朝鮮人共産主義者か同調者であり、政治的犯罪を犯す。」とある。


マッカーサーはどう受け取ったか? リチャード・フィンの生前のインタビューでの発言:「我々は日本の考え方に共感するようになった。在日コリアン問題はアメリカ側も偏見に染まっていった。」「(吉田のコリアン国外追放に)マッカーサーは同意しなかった。これは長期に渡って続いた問題で、占領期間中に解決するのは適当でない、とマッカーサーは基本的にそう言っていた。」(後付的な発言?:cangael)
この後、NHKのナレーションが:「GHQ朝鮮人の本国送還で韓国内で共産主義勢力が拡大するのを懸念していた」(これが事実では:cangael)
つづけて、「共産主義と対抗するには日本との同盟を強固にすることが重要と考えていた。またこの点で一致した。」


この後、朝鮮人の法的地位の問題は日本政府にゆだねて行く。
1949年(昭和24年)9月、朝連解散。吉田内閣は暴力的、反民主主義的組織に指定、組織の解散の実力行使に乗り出す。
同年、10-11月、朝鮮学校閉鎖。朝連系の学校の閉鎖対象は367校、40693人の子どもが母校を失う。
当時、大阪空襲で父を亡くし母の手一つで育てられ、民族教室へ通うも、直ぐ学校を追われ、日本の小学校へ、今は、お寺の住職の発言:「”朝鮮”と言われたら目も動かさず、表情も変えない、反応しないようにして、過ぎ去るのを待った。三つ子の頃から魂をいじられた。魂の、人格の中心部分をいじられた。」


1950年(昭和25年)6月、朝鮮戦争アメリカが国連軍として参戦。ソビエト、中国の義勇兵が北に。
戦争は日本のコリアンにも分裂をもたらした。民団と元朝連に分裂。民団は祖国防衛の志願者を募り、兵士を送る。元朝連は反戦・反米の闘争を展開。
1950年8月GHQは日本に警察予備隊を創設朝鮮戦争のさ中、日本は再軍備の道を踏み出した
1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ平和条約調印。日本は独立を取り戻す。しかし、ソ連、中国は署名せず、韓国代表は出席を認められず。
調印の同日、日米安全保障条約調印。日本はアメリカの同盟国としての戦後を選択した



1952年4月19日、日本政府は平和条約の発行直前、一通の通達「法務府民事局通達」を出す、「朝鮮人及び台湾人は内地に在住している者を含めて全て日本の国籍を喪失する」。日本の国籍選択の自由を与えられないまま戦争中に負傷した軍人、軍属、その遺族への援護など、いわゆる戦後保障の対象からはずされることになった。
京都大の水野直樹先生は、「平和条約に伴って国籍を失う、国籍を喪失したらどういうことが起こるのかの説明なく、様々な問題が残る事になり、最初の出発点から問題ありだった。」
和光大のロバート・リケット先生は、「歴史的記憶は一代では無くならず、代々子孫に受け継がれる。それを在日コリアンを「無視」して、日本を単一民族国家にしてしまって、大事な関係を打ち切ってしまった。在日の存在は日本がどういう国かということを示す大切な存在で、お互いに必要である。」


最後に番組は白頭学院での演劇の上演風景を映す。真剣なまなざしで子どもたちが見つめる劇は、学校閉鎖から立ち上がり61年間民族教育を支えた人々の物語である。白頭学院では現在韓国からの転校生や帰化した生徒も学んでいる。


「国籍を超えて多様な文化や民族と共存する社会をどうやって築いていくのか、在日コリアンの存在は日本という国の在り方を問いつづけています。」  終

日本の敗戦から独立までの占領期の7年間ですが、ちょうど私が生まれた翌年から学齢期に入る頃の期間です。
そしてこの時期が、戦後日本のあり方の基本を決定した時期でも。戦争に負けるということがどういうことだったか、ということです。でも、日本人にとって、この敗戦がある種の開放感をもたらし、進駐軍が「解放軍」である面があったということも事実としてありました。
また、吉田茂のアシスタントとして白州次郎GHQマッカーサー憲法でやりあっていた時期でも。
相手のアメリカは民主主義のリーダーで共産主義陣営とのデッドヒートも演じるようになり、文字通りの「帝国」、パックスアメリカーナアメリカの平和)を追求していきます。敗戦国日本との政治力の差は歴然。民主主義という建前がなければ、アメリカの属国になるより仕方がなかったでしょう。
日本が天皇制を残したり、独立を達成する為に、より苦しく弱い立場にあった人たちを踏み台にしたり、犠牲にしたのだとすれば、この時期の歴史を私たちはシッカリ学んでその事実を知るべきだと思いました。
私の小さな体験からですが、こんな過去があっても在日の方と私たちは理解し合えると言えます。