ETV特集シリーズ「安保とその時代」第1回(8月1日放送)

「安保とその時代」4回シリーズの第1回「日米安保を生んだ”冷戦”」−1945年の敗戦から1951年の調印まで
 
放送されてから時間が経っていますので、パスしようかと思っていましたが、録画を見直して考え直しました。
安全保障問題は大切ですし、自分の考えもなかなかまとまらない問題ですのでフォローしてみます。

今年(2010年)、6月、サンフランシスコで日米防衛外交の関係者が参列して日米安全保障条約改定50年の記念の式典が行われた。
マイケル・アマコスト元駐日大使の挨拶は、「中国は急速に力を手にして外洋航海を行う海軍を立ち上げ、アジアの沿岸で強い自己主張を開始している。北朝鮮は核の貯蔵を少量ながらも容赦なく増大させている。新たな半世紀を迎えるにあたり、われわれは同盟が良好で在り続けるよう専念すべき」。
このホールは、1951年、9月8日、初めてアメリカと同盟を結んで吉田茂首相が調印した場所である。その「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」、いわゆる「安保条約」にはこう記されている。「日本国は武装を解除されているので固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない、よって、日本国はアメリカ合衆国との安全保障体制を希望する」 アメリカの軍事力を要とする日本の防衛体制は現在まで続いている。時代の節目で安保をどう向き合ったのかを4回シリーズで。安保は戦後日本と日本人のあり方を決定付けてきた。 4回シリーズの第一回は「敗戦から1951年、調印まで」


戦艦ミズーリ号での降伏調印式。当初は戦勝国の4カ国、米英中ソの共同占領であったが、実際は、アメリカの単独占領に。それは何故?
   イギリスは:荒廃した自国の再建と植民地の独立問題の対応に追われていた。
   中国は  :調印式に出席したのは中華民国の代表、その後、国民党と共産党の内戦となる。
   ソ連は  :今から7年前に公開した外交機密文書の中にあった1947年の「ソ連の対日政策資料」によると、ソ連は「ルーマニアブルガリアについて自国の主張を通す代わりに対日問題については譲歩した。東欧を優先的に管理する必要があったのは、核開発のためであった。」ソ連崩壊後の公開された文書によると「ブルガリアでのウラン鉱の開発」が狙いであった。1945年12月、「モスクワ外相会議」(米英ソ)。ここで、ソ連は東欧の管理と引き換えで米の日本の主導権を認める。ここに、日本の占領を通して日米安保へと向かう体制が出来る。敗戦後の厭戦反戦、原爆こりごりという日本人の「戦争はイヤだ」という感情と相まってマッカーサーの推し進める「非軍事化」は急速に進む。

1947年3月18日、占領から1年半後の朝日新聞:「占領の第一段階である非軍事化は終了した。対日講和条約を結んで日本の軍事占領を早く終わらせるべきである。われわれの撤退後は国連が日本に安全保障の手段を与える。日本はこれを受け入れるだろう。」というマッカーサー発言の記事が。
ところが、本国は「待った!」をかける。占領を継続しなければならない事態とは? それは「冷戦」である。


ソ連の影響の下次々と社会主義国家が誕生、西の資本主義国対東の社会主義国と激しく対立。この頃、モスクワ駐在のアメリカ大使館の連通・ジョージ・ケナンからワシントンへ、ソ連首脳が世界をどう捉えているか、アメリカのとるべき対抗策について電報が。「ソ連は外の世界は邪悪で敵意に満ち、脅威である。ロシアの勢力を拡大させる」として、ソ連の影響の拡大を防ぐ『封じ込め政策』を提言、政府に採用される。
日米関係史の専門家、アリゾナ大学のマイケル・シャラー教授の解説:「封じ込め政策が日本の占領終結を遅らせた。」
「1946〜47年、米ソ関係が悪化していく中で、アメリカは防壁がないとソ連が拡大するという恐怖心を持つようになった。その怖れは、必ずしもソ連が軍事拡大や武力侵攻するということでなく、ヨーロッパやアジアの空白状態の国にソ連が拡大して行くという恐れ。ケナンや米政府担当者はドイツや日本をソ連拡大に対する経済的、社会的、政治的防壁と捉えるようになっていく。」 


世界を二分する冷戦に日本が巻き込まれようとする中、行動を起こした人々がいた、「平和問題談話会」である。
東京女子大学図書館の丸山真男文庫、先月、資料整理が終わり公開された資料から・・・1948年12月、総会が開かれ、岩波書店の編集長吉野源三郎の呼びかけに応じて様々な分野の研究者50人以上が集まって冷戦中の平和をどう築くのか活発に議論した。
そ の中の一人が国際基督教大学名誉教授で日本思想史の武田清子(93才)さんで、今尚、研究、執筆活動を続けている。雑誌「世界」に掲載された「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」には、「われわれ日本の科学者が自ら顧みて最も遺憾に堪えないのは、わが国が侵略戦争を開始した際にあたって、わずかに微弱な抵抗を試みたに止まり、積極的にこれを防止する勇気と努力を欠いていたことである。」武田さんによると「象牙の塔に閉じこもるのではなく、どんな機会でもとらえて広く国民、一般市民に訴えていくという運動だった」。


武田さんは1939年、第一回世界キリスト教青年会議(アムステルダム)に参加した時の衝撃的な出会いについて語る。「中国のコンプーシャンという女性に話しかけたら、『二人で話し合っても仕方がない。私への本当の友情があるのなら、国に帰って日本の軍隊を中国から引き上げるよう働きなさい』と言われ、窓を開けたらピシャと閉められたような感じだった。最初はひじ鉄を食らったような思いだったが、よく考えたら本当にその通りで、胸に突き刺さるような思いで生涯の私の宿題となった。」


占領から5年後の1950年、停滞していた講和問題が急速に動き始める。日本との交渉担当/国務省顧問のジョン・フォスター・ダレスが、6月来日。マッカーサーに対日講和と共に日本をアメリカの軍事同盟国にするという方針を伝える。1950年6月23日の「マッカーサー覚書」(占領初期とは全く逆の構想が・・・)「日本の国土全体をアメリカ軍が制限なしに自由に使える潜在的基地(potential base)とみなす、日本人もアメリカ軍が国民的経済にもたらす貢献を歓迎する」とされ、日本をアメリカの軍事基地と位置づける構想の第1歩が踏み出された。


このアメリカの動きには当時のソ連と中国の動きが深く関わっていた。1949年10月、毛沢東共産党が指導する中華人民共和国、成立。4ヵ月後の1950年2月14日、「中ソ友好同盟相互援助条約」締結。中ソが互いの安全保障と援助を約束。その中にアメリカを刺激するひと言が、「日本と日本と同盟する国家を仮想敵国」として挙げていた。

先ほどのマイケル・シャラー教授の解説:「アメリカは中国共産党は独自の道を行くと考えていたが、中ソ同盟が締結され、共産主義の恐怖が増大。ソ連が東欧を脅かしたのと同様、中国がアジアを脅かすと言う恐れ。そこでアメリカはアジア戦略を見直し。日本はソ連と共産中国に対する防波堤と見なされた。 日本の経済を再建し、限定的な再軍備を進めて、何としても日本を軍事基地として維持しなくてはならないと政策担当者が考えるようになった。」


ところが、毛沢東スターリンの背中を押したのはアメリカ自身とも言われている。それは・・・
米中ソの駆け引きを明らかにする「国際冷戦史研究センター」が上海にある。所長の沈志華さんは、ソ連崩壊時膨大な旧ソ連軍史を手に入れ中国側の資料とつき合わせて研究している。それによると:中ソ同盟締結の2ヶ月前、毛沢東はモスクワを訪れ、スターリンと会談。毛沢東は1945年に国民党とソ連との条約を破棄して新たな同盟締結を望んでいた。スターリンは、現行条約がソ連の権益を認めているので、継続したい、さらに、新たな同盟を中国と結んでアメリカを刺激したくないという意向もあった。1949年12月16日、「毛沢東スターリン会談記録」では、毛の「条約を締結する為外交担当の周恩来をモスクワに呼ぼう」にスターリンは「われわれだけで十分。周氏には他にすべきことがある」と応じず。毛は滞在予定が過ぎても帰らず交渉を続ける。この時、アメリカの存在が毛沢東の追い風になった。

沈所長によるとアメリカの対中政策は「国家安全保障会議文書第48号の2」によると「共産中国にはソ連と同じような厳しい政策を取ることは不適切」とあり、国内情勢を見極めてからとして、それまではあいまいであった。モスクワに居る間の
1月12日、米国務長官の長い演説で、「アメリカは予てから中国の友人だ」と言う内容で、「歴史的に見て中国を攻撃し、領土を占有し、中国と不平等条約を締結したのはロシア」と強調。この演説の内容を入手したスターリンは「明らかに中ソの関係を裂こうとしている」と怒りながら毛沢東に言ったという。この状況下でスターリン毛沢東の要求を受け入れざるをえなくなる。アメリカの駆け引きが、中ソ同盟の締結の後押しをしてしまった。  つづく

日本の非軍事化から占領終結の道が途絶えたのは、東西”冷戦”とその「封じ込め政策」によってでした。
ジョージ・ケナン、聞いた事あります。ジョン・フォスター・ダレス、よく、よく、知っている名前です。
そろ、そろ、現代史が自分の記憶と重なってくる時代になってきました。