ETV特集「安保とその時代」第2回「”改定”への道のり」

8月27日(金)の日経文化欄の「文化往来」という囲み記事で「ANPO」というドキュメンタリー映画が米国人女性監督によって製作されたことを知りました。9月18日の東京・渋谷アップリンクを皮切りに順次全国公開されるとか。
日本で生まれ育ち、黒澤明宮崎駿らの日本映画の英語字幕を製作してきたリンダ・ホーグランドさんが初監督したのが、1960年の安保闘争だというのですが、「画家や写真家、演出家らアーティストの証言を通して日米安全保障条約を巡る闘争や日米関係を見つめた」。映画化の切っ掛けは浜谷浩の安保闘争を取材した写真集に「希望、抵抗、怒り。知っていたつもりの日本人から想像できない露骨な表情が表れていた」ことに衝撃を受けたから。「50〜60年代の日本は米国ではほとんど語られていない。日本と米国、(精神的には)どちらにも所属していないからこそ見えるものがあるはず」とのこと。

安保を取り上げる事は気が重い作業です。それは50年という年月の長さだけでなく、50年前の力関係とか日本人の願いや憤りや、あるいはアメリカ側の意図とかが、固定化あるいは凍結された状態で、そのまま今に繋がっているという事が何ともやり切れない思いです。沖縄の普天間の問題は、改定への道筋を知れば知るほど既視感に襲われます。でも、8月8日(日)に録画したのをすでに見てしまっていますので、書いてみます。
今から57年前の1953年、石川県内灘町の浜全域が接収されました。
その時、抗議の座り込みをした女性、吉本武子さんが証言します。この石川弁のイントネーションが私には懐かしく心地よい響きがします。加賀市出身の両親のそれぞれの実家を従兄弟に自転車に乗せて連れて行ってもらった幼い頃、また、両親の妹たちが我家に滞在していた時、母と語り合っていた叔母さんたちのあの加賀弁のゆるゆるとした抑揚。しかし、これが怒りを伴って語られるのを初めて聞きました。

1951年の安保条約でアメリカは基地を持てる事になり、700を超える基地では激しい抗議運動が起こり、基地反対闘争が日米同盟見直しにまで至る。アメリ国務省の「極東におけるアメリカの政策」によると:「中国は日本を中立化してアジアを支配しようと考えている。中国のパートナーであるソ連も日本の中立化を重要なステップと考えている。」 アメリカは日本の中立化を怖れていた。中ソの同盟関係が日米安保を生むことになたが、この頃中ソ(毛沢東フルシチョフ)の関係は破綻への道を歩んでいた。中ソ関係が悪化する一方でアメリカと日本の政府は関係をより強固にするため、安保改定を進める。
1960年1月19日、改定された新安保では、相互協力と関係強化が図られ、アメリカの日本防衛義務が明記され不平等は改められ、同時にアメリカ軍は引き続き基地使用を認められる。50年前の条約は一言一句変えられず今日まで続いている。
安保条約は戦後日本の、日本人のあり方を決めてきた。

以上が山根基世さんのナレーションで、最後の一行は一回目と同じフレーズで終わります。ここまでが前奏曲です。

基地闘争の始まりから1960年の安保改定までを探る。
東西冷戦の緩和の兆しを見せるなか、何故日本は安保改定の道を選んだのか、新たな安保が生まれる過程をたどる。
1952年秋、アメリカ軍の試射場の建設が始まる。村は期限付きを条件に通告を受け入れ。使用期間は53年の1〜4月の4ヶ月間。
内灘日本海河北潟という湖に挟まれた砂丘の上の町。村には畑はわずか、住人のほとんどは漁業に従事、浜は地引網漁に欠かせない場所。ところが4ヵ月後も引き続いて使用される。


1950〜53年、朝鮮戦争。様々な物資の日本は供給地に。砲弾や弾薬は性能を確かめる為試射場が不可欠。
1953年6月2日、吉田茂首相、内灘の永久接収を決断。ラジオで聞きつけた人々が駆け付け、梅雨のさなか連日の座り込みが始まります。吉本武子さんたち20代、30代の女性たちは ] 子どもをおんぶしての参加。
「ここがあればこそやぃねぇ〜」。永久接収反対のため全国から支援者が大勢駆け付けた、その人たちの訴えは「安保条約撤廃」。 内灘町歴史民族資料館「風と砂の館」にある阪急労組の現地報告のパンフレット「嵐を呼ぶー軍事基地粉砕の闘い」が当時の時代精神を感じさせる。「私たちは講和・安保両条約と日米行政協定に対して強く反対し続けてきた。そして今やその本質は「和解と信頼」のなにものでもなく、実は日本の民族を苦しめる733に及ぶ軍事基地設置のためのものであることを示している。このまま放置していたら日本は昔来た道、再軍備への方向へ進んでいく、今はその大切な分岐点の闘いである」


住民自身は賛成派と反対派に分かれていた。鉄板道路(砂地を走る為の)を始め試射場内の施設は地元企業が作り、大きな雇用を生み出していた。中山村長は受け入れと同時に補償金に着目。河北潟干拓砂丘地の改良を進め田畑を増やして村の暮らしを安定させようと考えた。しかし村長の考えは拒絶された。
当時、村長と共に問題に当たった村議会議員・西田勇さんは接収容認の立場だったが、多額の見舞金が支払われるのを見た。「5500万円の見舞金を出す。2000万の道路改修費を出す。漁業補償をする、農業補償、立木補償をすると、村の予算が2000万の時に5500万の見舞金でしょ。漁業じゃやっていけん、出稼ぎもダメだし、海区調整委員が出来て身動きができなくなった。半農半漁がダメなら、河北潟干拓砂丘地開発しかないと。丘陵地開発なら植林さえすればそれで出来るやないか。内灘の将来の為にはそういう形じゃなかったらやっていけませんよということだった。外から見たら矛盾した現実があったということやね。ほんだけ内灘は貧乏な村やったってことやね。他に仕事があれば好き好んで誰がそういうことするって・・・」


永久接収が言い渡され、中断していた砲撃を再開すると通告を受けた村では、砲撃再開の前日、接収に反対する住民たちが役場に押しかけ警官隊と衝突、負傷者が出た。中山村長の日記、「大乱闘。自分は役場後方に避難した。午後2時頃、見つけられて連れ戻された。警官の護衛がなくては身動き出来ぬようになった。」当時の村議西田氏の話、「大変なもんで、14,15、毎日議員で全員協議会をやったわいね。特別な議題はないし、対策はないけど、とにかくじっとしてられないわけでね。(接収反対の住民は)議員って奴は全員賛成派やというようなことでね。小さい頃から一緒におった連中からつば吐き掛けられたりね。クソッと思ったこともあったけど、村民同士がいがみ合ったわいね〜」


6月15日、方針通り試射再開。反対住民と容認住民の対立はますます深まっていった。長引く対立に、中山村長は永久接収に反対の決断を下す。
9月、村長たちは政府に土地の返還を要望。あくまでも永久接収を求める政府に対して村はねばり強く訴える。政府はついに村の願いを聞き入れる。
土地は3年後に返還される事になった。「内灘の人々は永久接収によって得られる補償金よりも軍事施設のない村を選んだ。」 
返還後は畑や宅地に。本邦初の基地の返還闘争は反対住民勝利に終わった。


この年、1953年、世界は大きな変化が。朝鮮戦争の休戦協定が結ばれ、アメリカの大統領が変わる一方、ソ連スターリンが死去したことが切っ掛けだった。
ニキータ・フルシチョフは冷戦を熱戦に発展させた。1954年10月、ソ連は中国とともに「対日共同宣言」を発表。「日本に対する中国とソ連の政策は社会制度を異にする国家も平和に共存できるという原則に基づいている。われわれは日本と広範な貿易関係を発展させ密接な文化上の連携を樹立することを主張するものである。日本との関係を正常化させたいと願っていることをわれわれは表明する。」



日本では吉田内閣に変わって鳩山一郎内閣が誕生鳩山首相アメリカ一辺倒ではない自主外交を掲げ、ソ連との国交回復交渉に乗り出す。 1956年8月、一年以上の交渉が大詰めを迎える。最大の懸案となったのは領土問題。ソ連は歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の二島返還を提案。日本は4島返還を望んでいた。
日本の代表重光葵(まもる)外相は、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)を諦めソ連と平和条約を結ぶべきと判断する。
しかし、重光の提案は本国の閣議で認められず。さらに、重光はアメリカの国務長官ジョン・フォスター・ダレスからソ連には強硬姿勢をとるべきだと言われる。「重光・ダレス会談記録」:「ソ連には強硬姿勢をとるべきだ。ソ連が全千島列島を手に入れることになれば、アメリカは沖縄に永久にとどまることになるかもしれない。そうなると日本のどのような政権も存続する事はできないだろう。」 鳩山首相は平和条約を断念、国交正常化のみに。1956年10月、日ソ共同宣言。領土問題は棚上げに。
アリゾナ大学教授で、日米関係史の研究者、マイケル・シャラー氏の解説:「ダレスの行動の背景にはアメリカの警戒心があった。アメリカの目標は接近する日ソ関係を妨げ、それを通じて日中関係も妨げ、日本における沖縄返還の圧力を阻止することにあった。日ソ共同宣言の内容は戦争状態の終結や、貿易の開始、捕虜の交換などに留まり、アメリカは大いに安堵して、これを勝利と見なした。」


この4年後、アメリカの「国家安全保障会議・文書6008号」には「日本の基地は極東の経済的、効率的防衛には欠くべからざるものである」とされ、日本は日ソの防衛基地であるとともにアメリカの軍事予算を減らす上でも重要であった。   つづく

内灘闘争は全国に影響を与え、基地反対闘争は全国の基地で始まりました。