「シリーズ・安保とその時代」の第2回「”改定”への道のり」つづき

昨日は隣町の豊中市で日本最高気温38.1℃を記録しました。箕面でも37℃はいったでしょう。
夏休み最後の日曜日、お盆風が吹いてそろそろ夏服では夜など涼しすぎて…という頃なんですが。
私も夏休みの宿題を今日で片付けてしまいたいと思っています。
前半は内灘の基地反対闘争を見てきましたが、後半は冷戦体制が緊張緩和に向かう世界情勢の中、何故、安保は改定されたのかという番組の設問を頭に置いて内容を辿ってゆきたいと思います。
第1回は全面講和ならず、時あたかも冷戦がスタート、アメリカ単独占領からサンフランシスコ講和条約と抱き合わせに日米安全保障条約が締結されたところまででした。タイトル「冷戦が安保を生んだ」のですから、「冷戦」が終われば「安保」はどうなる?という現在の問題に繋がる考察だと考えてみると興味深い後半です。

1951年の旧安保で国内733の基地が設けられた。1953年の内灘闘争とその勝利は全国に影響を与え、基地反対闘争は全国の基地で始まった。
東京都砂川町。隣接する立川基地の拡張に反対するデモ隊が警官隊と衝突、多数の負傷者が。デモ隊が基地内に侵入、米軍に訴えられ裁判にも発展。
1957年1月、群馬県相馬が原演習地で事件が。家計の足しにしようと薬莢拾いに入った主婦がアメリカ兵のウイリアム・ジラードに撃ち殺され、ジラードは傷害致死で起訴、有罪とされるも執行猶予がついてアメリカへの帰国が許される。日本人はこれに大反発、アメリカ軍基地への反感が高まる。


1957年2月、駐日アメリカ新大使ダグラス・マッカーサー2世が着任、(連合国最高司令官の甥である)。
マッカーサー発ダレス宛文書」による報告では、「今われわれは対日関係のTurning Pointにさしかかっている。もしここで潮の流れを変えねばアメリカの立場は崩れていく。私が恐れるのは日本が少し中立主義の方向に流されていくのではないかということです。」

アリゾナ大のシャラー教授の解説:「日本が中立主義の方へ流されていく」という表現が繰り返し出てくる。日本が共産主義化すると考えているわけでなく、ただ日本が中立主義の方に押し流されると日米安保条約が実のないものになり、日本人は条約を破棄こそしなくても重視しなくなると考えられた。叉、アメリカ軍の基地に関する権利が妨害されるのではないかと懸念された。


1957年2月、マッカーサー着任と同月、岸内閣誕生。6月、訪米。「岸ダレス会談記録」によると、ダレスは岸にこう告げていた:「われらは日本から地上軍のすべてを撤収し、他の軍についても大幅な削減を行う考えがある。」「内輪の話ですが、われわれはあなたがソ連と中国の共産主義の脅威についてわれわれと同じ評価をしていると考えている。しかし、日本の望みがわれわれから離れることにあるのなら、アメリカとしてはその意志に沿うようにしたいと思う。(we divorce) 」「われわれは東アジアにおいて別の取り決め(arrangements)をすることができる。たとえば、オーストラリアはわれわれに産業を発展させてほしいと申し出てきました。日本の代わりにオーストラリアを工業基地にすると言う考え方もあります。」これに対して岸は「安保条約を再検討したい]と答え、ダレスは「応じる」と返答。
岸の国会での発言:「私はこの会談を通してアメリカとの強固にして恒久的な日米両国間のパートナーシップが生まれ、心から日米関係の新時代への扉が開かれるものと信じます。」


シャラー氏:「岸は占領下で公職から追放されたが、1950年代に復帰している。アメリカは岸を「無二の親友」(best friend)と捉えて実際そう表現している。アメリカは岸を社会主義の勢力を広げさせない格好の保障と考えたので、岸や彼の一派を支持する事がきわめて重要だったのです。しかし、岸を信用しない日本人が多いため彼の地位を改善する必要があった。」


日本のアメリカ地上軍の撤退が始まる。60年代初め基地は4分の1に減少、反比例して基地が集中していったのがアメリカの施政権下にあった沖縄だった。同時期、沖縄では米軍基地は2倍に。
マッカーサー2世からダレスへの書簡:「安保改定問題は今年中にも日本側から持ち出されるでしょう。この問題を今から熟慮しておく事が重要です。」
日本が旧安保を不平等とした主な点は、米軍の日本防衛義務が明記されていない、米軍基地の配置や軍事行動について日本との協議がない、条約に有効期限が定められていないことなどでした。
日米関係の研究者である西南女学院大の菅英輝教授の解説:「アメリカへの反感・反発=日本のナショナリズム国民意識)=安保不平等の意識の高まり=を管理することについては、日本政府よりもアメリカ政府のほうが日本国内世論に目を向けていて、それにある程度応えていかないとアメリカの国益に叶わないと考えていた。」
1958年10月、旧安保条約改定交渉が正式にスタート。 ]

この時、市民から様々な意見が発表された。研究者の集まりである国際問題談話会が政府の安保改定を批判:「安保条約は独立後の日本を外交的に共産主義国と敵対関係に置いたばかりでなく、軍事的に米国軍事体制に編入した。全土の基地化が、内灘に砂川に、いかに繰り返し基地問題をひきおこし、同胞血で血を洗う惨劇を繰り返したか、償いようのない悲劇を生み来たったか。」「安保条約の再検討においてわが国の自主性を打ち立てる道は「改定」による軍事同盟の合理化ではなくて安保体制そのもの、すなわち軍事的政治的な対米従属の解消以外にありえない。われわれが選ぶべき道は積極的中立主義以外に決してありえないのである。」
かつて講和条約を結ぶ際、中ソを含む全面講和を主張した「平和問題談話会」の声明:「われわれは11年前に全面講和と中立と軍事基地撤廃という三つの原則をわが国の進むべき方向として広く国民に訴えた。その際、冷戦は今後ますます激化する宿命的な現実でないこと、東西両陣営における米ソ以外の諸国の自主性への歩み、米ソ両国それぞれの内部変化の可能性をとくに強調した。」


<冷戦は必ずしも激化するとは限らない>という指摘どおり、この時まさに東側陣営での大きな変化があったことが分かってきた。
5年前に中国外交部が公開した文書に、モスクワの中国大使館員から北京への電報があり、その中で毛沢東が進める国家事業の人民公社についてフルシチョフが「成功するはずのないばかげた話」と言っているという内容がある。元駐ソ中国大使館員の証言でも「中ソ関係が悪くなってから、尾行されているような気がした。互いに相手が自国を必要としているのか、困った時に自国を助けてくれるのか、相手を信用できなくなった。つまり、駐ソで連携して西側に対抗しようという気持ちがなくなっていた。両国はともに西側との関係がこれ以上悪化しないことを望んでいた」


ソ連も叉中国に対する不信感を募らせていた。元駐中ソ連大使の証言では、「1958〜9年の事だった、両国の食い違いは直ぐには分からず隠れて進行していた。原因は毛沢東が国際共産主義のリーダーになることを求めていた点です。中ソの食い違いはイデオロギーの問題だった。それは年を追って複雑になり国家関係の問題に拡大していった。」
1959年10月、中華人民民主主義共和国建国10周年の式典にフルシチョフが招かれた。しかし、その前夜、二人は激しく言い合った。毛沢東が核技術の提供を求め、フルシチョフがこれを拒絶したのだ。この後、2度とフルシチョフは中国を訪れなくなった。
米中史の研究家、上海華東師範大学教授沈志華さんによると、「アメリカのCIAは毎年中国の政策を分析する報告書を作成し、国家安全保障会議や大統領に提出していた。中国とソ連に食い違いが生まれたことはCIAは既に把握していた。1957〜62年の報告書に中ソの食い違いを記している。」


1960年1月、日本とアメリカは新安保条約に調印
調印後の岸首相の会見で「最近の東西緊張緩和の兆候は平和への多大な希望を世界に与えています。しかし、決して手放しの楽観をもつことは許されません。実際の行動によって実証されるまでわれわれは単なる平和のかけ声のみに惑わされてはならないのであります。国際緊張緩和への努力の過程において我々が警戒しなければならないことは国際緊張緩和への希望と現実を混同して誤った安心感に陥る事であります。自由世界が錯覚によってその団結をゆるめることは許されません。」
新安保では、それまでの不平等な内容が改められ、アメリカとの関係強化がうたわれた。「アメリカ合衆国はその陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設および区域を使用することを許される。」


ナレーション「基地闘争から始まった安保改定。しかし、結局日本にアメリカの基地は残る事になりました。日本との平和共存を訴えていた東側陣営は条約締結に反発します」
ソ連は日ソ共同宣言で約束していた領土返還交渉の凍結を宣言。中国でも新安保への大きな反発が。北京では各界の代表者が集まり反対集会が開かれた。集会の様子を撮影した新華社通信女性カメラマンだった牛畏予さん:「大会に参加した人々はみな感情が高ぶっていました。不安に満ちた表情でアメリカと日本の同盟締結に反対しました。会場の外では大きなデモが繰り広げられていました。日本とアメリカが手を結ぶことに対しみなが脅威を感じていました。すべてが次の戦争のためと思われました。反対しないわけには行きませんでした。当時は日本に対する反感が強かったですからね。」


ナレーション「1960年5月、条約案は衆議院で採決されます。反対する政党を締め出した強行採決でした。岸内閣の強硬な姿勢に多くの国民が反発。安保反対闘争が拡大していきます。その30年後、東西冷戦は終焉を迎えます。世界の枠組みは大きく変わりました。その一方、日米の安保条約は変更されることのないまま現在に至っています。」    「シリーズ 安保とその時代」第2回「”改定”への道のり」終わり

ジラード事件、安保反対闘争、と10代に差し掛かる頃からの事件で記憶に残っています。
思いつくままに感想を◎アメリカは日本を軍事基地、工業基地、軍事費削減にと戦勝国として十分に利用しつづけている。◎日本に岸信介という人物がいたことがアメリカにとってラッキー!であった。岸さんは、日韓関係でのパク・チョンヒの役割を日米関係では果たしている。そういう意味でも日米・日韓の両関係は重なって見える。◎旧から新安保に引き継がれる時、沖縄の存在の重要性(アメリカの施政権下にあった)が増し、国内基地の撤廃と引き換えに沖縄集中がなされた。それがそのまま今に。◎千島問題と沖縄の関連(千島が返還されれば沖縄もなのでアメリカは解決を望まない、だからいつまでたっても解決はないというのは本当だったのか)◎アリゾナ大のシャラー教授の解説はアメリカの意図がハッキリと良く分かる。
冷戦が終焉を迎えるには60年安保からでも30年近くの年月がかかっている。当時の両談話会の安保反対の意見表明は時期尚早だったとしても、30年後には冷戦の終結を迎え、安保継続の前提は崩れた。当然、安保継続を望む勢力は条約の性質を既に変えようとしています。でも、基地反対闘争で戦った日本人の真に独立した日本・日本の国土を日本人の思うままに保存したり、利用したり出来る国を望む気持ちは、健在でしょうか? アメリカと仲良くして同盟を結んでそのお陰で生活できている人も居るのだから今のままでいいんじゃない、と思っている日本人の方が多いのでしょうか? 仲良し同盟でなくて軍事同盟ですよ〜、仮想敵を共にしないといけないんですよ〜、考え直してみてください。
 大河ドラマ龍馬伝」では薩長同盟が一介の浪人である自由人坂本龍馬の裏書で成立したところです。長州の高杉晋作たちは隣国中国が西洋の植民地になった姿を見聞きして、ああなってはいけないと幕府を倒して新しい日本国の設立に命を捧げました。色んな立場の日本人が一つになれる課題は「自立した日本」を目指すことではないでしょうか。
50年は長かったですが、50年で止める事は出来ます。政治的課題にならないのが不思議です。
事荒立てず?にスルリと抜け出る術をあみ出す政治家を!