秋、見〜つけた! そして、ブーニン!

ヨーガの帰り道に見つけた秋の花、萩の珍しい紅白絞り咲きの花を見つけました。
二筋北側のご近所の塀越しに、しだれ咲いています。
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秋ですね〜 そう言えば、もう9月も中旬です。
今日は「徹子の部屋」のゲストがスタニスラフ・ブーニンさん。
25年前の1985年第11回ショパンコンクールの覇者であり、日本でブーニンブームが巻き起こった張本人。そして、その後、ゴルバチョフの出現でソ連も自由になったと西側の人間が思い始めた頃、ドイツに「亡命」、その時「私の夢は日本」とロシア語で伝えて、日本のマスコミや知識人が猛反発、特に朝日新聞からは「甘えている」と言われた反体制のピアニストでした。独善的な反応に、私は長年の読者だった「朝日新聞」を止めました。あとから出版された自伝によりますと、当時KGBに身辺を窺われ、母親を人質に、ショパンコンクールに参加していたといいます。
その年の12月に放送されたNHKショパンコンクール密着取材?のドキュメンタリー番組を見て、このヒゲを蓄えタバコを手にした年齢よりウ〜ンと老けて見える19歳の天才ピアニストの弾くショパン英雄ポロネーズに初めて心を撃たれました。本選のショパンの第1番のピアノ協奏曲を録画したテープをどれだけ聴いたことでしょう。
不思議なことにブーニンのピアノがクラシック音楽の楽しさを初めて私に教えてくれました。それから、夫が吉田秀和さんが解説するNHKラジオの音楽番組を録音していたテープがあり、まるで文学全集を紐解くように、毎日のようにモーツアルトからベートーヴェンへとクラシック音楽の体験をしました。
亡命前のソ連時代、ブーニンさんの初来日の帰国前、ファンのために開いたコンサートに、まだ中高生の息子のいる母親の身で、新幹線で東京へ出かけ、会場で一緒になったファンの方と夜行バスに乗って大阪まで帰るということもありました。私の初めての「不良行為」を決意させたのもブーニンさんのピアノでした。本当に思い出深いピアニストです。
あれから25年です。「マヤ・ミチタ=私の夢」をブーニンさんは実現していました。日本人と結婚し、18歳の息子の甲斐くんとステージで共演もし、ドイツと日本に半分ずつ暮らして「私は幸せです」と言う言葉を本当に嬉しく聞きました。

昔から気を許したファンの前では多弁でしたので、43歳のブーニンさんは旧知の黒柳徹子さんの前で色々お話していました。
話題に出た人たちはジャズピアニストでブーニンファンと公言され、以前から何回か共演している山下洋輔さん、18歳の息子の甲斐・セバァスチャン・ブーニンさん、そしてヴァン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井伸行さん(ブーニンの演奏するショパンが生まれて初めての音楽だったというエピソードの持ち主)。若い頃から、音楽教師の家系に生まれついたために血が騒ぐのか、音楽教育に関しては昔から情熱的でした。亡命直後は洗足学園(?)で先生をしておられたし、若いピアニストの成長が本当に嬉しそうでした。冷蔵庫には紀州の梅干と新潟の日本酒がいつも入れてあるそうです。
徹子さんの「日本の何が好き? 桜?」と言う質問に、「私は日本にいることが好きなんです」。
今年はショパン生誕200年、秋には大阪でブーニンショパンを聴いてもいいかな〜と思っています。