「愚者の楽園へ」つづき(2)

9月12日(日)に放送された<シリーズ安保とその時代第4回「愚者の楽園へ 〜安保に賛成した男たち〜」の最終回

「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」 (出版先:文藝春秋
1994年5月発売 他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス (新装版)2009年10月29日発売 他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉(背景は「NSDM13号」文書)

1994年に出版された「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」、その「あとがき」に若泉は書いている。
「敗戦後半世紀間の日本は戦後復興の名の下にひたすら物質、金銭万能主義に走り、その結果、変わることなき鎖国心理のなかで、いわば”愚者の楽園”(フールズ・パラダイス)と化し、精神的・道義的・文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。」
 

突然の出版に土曜会のメンバーは衝撃を受ける。友人、後輩たちは、この時初めて真相を知った。
下宿人であった谷内正太郎さん「核の傘に関連する問題だから、現在進行形の問題だから、出すべきでないと思っているが・・・まぁ、真面目なあの人がそれを出す事によって、今の、彼の言葉で言えば”愚者の楽園”化している今の日本に警告を発して、本来国家として、国民として考えるべきことを忘れてるんじゃないかと、あるいは、日本国が社会的、文化的に、歴史的に根無し草になっている…と警鐘を鳴らしている」。

佐々淳行さん「それは、それは、忠実だった。頑として言わなかった。佐藤さんが亡くなってからも頑として・・・。あんまり忠誠心が強く、最高の秘密を一人で背負った気になった」。

若泉が葉書や手紙を寄こしていた福留民夫さん「著書の出版前から沖縄を訪れるようになっていた。沖縄に済まないという気持ちが益々〜〜。沖縄が大勢命を落として・・・。慰霊、鎮魂の旅に訪れ、その後、基地問題が一歩も動かないと言う事が彼の心の深くに食い込んでいったと思う。」



若泉はたくさんの沖縄関連記事の切り抜き、沖縄の地元紙を毎日取り寄せ基地に対する怒りを感じ取ろうとしていた。
国立沖縄戦没者墓苑」の慰霊の碑に靴のまま正座して手を合わせている若泉の写真。
沖縄返還の結果に対する自らの責任、そして、基地の負担を沖縄に押し付ける本土の日本人への絶望」、それが固く口を閉ざしてきた密使の仕事を公表した理由だった。若泉は出版前、編集者宛の手紙に書いている:「もうそろそろ時効だろうし、ということで世によくある「今だから語ろう」といった類の出版には私はどうしてもしたくないのであります。
歴史へのささやかながらも一寄与として拙著を公刊して頂きたい」


若泉の明かした沖縄返還交渉の実態に、外務省は密約の存在を真っ向から否定。この時の外務大臣は「有志の会」の会員だった柿沢弘治。しかし、従来の政府の方針、「政府は従来から申し上げていますように密約というものは存在しない」と繰り返しただけだった。若泉は国会に呼ばれ証言する覚悟を固めていた。しかし、その機会はなかった。「拙著は”無視黙殺”されたままの現状であります。政治家・官僚・学者、その他みんな逃げてしまいました。」



この頃、若泉は余命わずかの末期がん、自らの責任の取り方を考え続けた。
若泉の書いた「嘆願状」、あて先は沖縄県民と大田昌秀沖縄県知事
「歴史に対して負っている私の重い結果責任を取って自ら命を絶つ」と記されていた。
1996年7月27日、没、享年66歳。(自決であった。)



佐々淳行さん「可哀想だ。一生懸命やっていて、もっと役に立つ人だった。彼は清廉潔白というか・・・ CIAからお金を貰ってるとか言われたり」。
福留さんは若泉と最後に会った時、ある言葉を聞いていた:「「安保廃棄」、それしかない、というか… 身を乗り出すようにして言ったんです、強い、真剣な強い声で身体を乗り出して「安保廃棄」という簡潔な声でそういった。国民も目を覚まして原点に立ち返って安保をどう位置づけるかと、どうするかということを考える機会にしてほしいという願いが、思いが。それしか、沖縄の基地問題を突破できる方法はないという思いつめた気持ちですよね。それが彼の最後の言葉でした」。 外務省の大臣官房審議官だった谷内正太郎さんは、若泉から託された事があった:「日本国のことを頼む、とこういう風に(拝むように)手を合わせて頼まれた事がある。亡くなる2ヶ月前のことでした。日本国のことを頼むと・・・」


60年安保に賛成した土曜会のメンバーたち、半世紀後の今、日本を、自分たちをどのようにとらえているのだろうか。
新日本製鉄勤務の窪田さん「世の中このままで行ったらフールズパラダイスになるんじゃないか、沖縄の人に対する思い、それから日本人たちに対する、このままでいいのか?という、そういうものはしみじみ感じる」。 元三井物産勤務の西田さん「体制内改革ということで国家公務員になろうと勉強したんですが、一寸魔がさしたというか、日和ったというか商社に行った・・・・私は発展途上国のためにと思ったんだが、それもその国の人たちのためになったかというと、悲しいかなサラリーマンは収益目標達成のためにガムシャラになる・・」。


産経新聞記者の佐伯さん「課題だな〜と思うのは、やはり、今の憲法体制と日米安保が補完関係にある。日本の憲法が日本の力では日本を防衛できないという風に条文が書いてある。これは日本の安全はアメリカが守ってやると。どう見てもお妾さんじゃないか。この状態をキチッとした世界の普通の状態に戻すのが僕らの役目だと・・・」。 元NTT勤務の上妻さん「それは本当は我々の世代までに終わらせておかなくっちゃいけなかったんだ。だけどそういう能力も環境もなく・・・」。 元朝日新聞記者の志村さん「激動の時代に入るよ。経済にしても、政治にしても、国際問題にしても・・・」。


「かつて安保体制に賛成しながらも、将来的にはアメリカからの自立を夢見た人々がいました。安保闘争で身体をはって激しく安保に反対した人々もいました。いずれも明確な答えを得ぬまま半世紀の時がながれた。国家・国民の命をいかに守るか、その問いは今も私たちに問いかけられています。」


沖縄県与那国島、若泉は亡くなる直前、最後の原稿を執筆するため、この島に長期滞在。
当時ホテルを経営していた後真地恵子さん:「若泉さんが泊まっていたのはあの部屋です、角の。はい、窓の少し開いてる部屋ですね。部屋でずっと書き物をしてましたよ、一人で」。 若泉はこの島で体調が急変し重態となった。若泉の写真を見ながら、「まだ痩せてましたよ、倒れた時はもっと痩せてました。目をつぶって、大丈夫、大丈夫、もういいから、離せ、離せ、帰れ、帰れと言った。もし、あなたが亡くなったら、どうすればいいですか?と聞いたら、もし自分が亡くなった場合は、心配しなくていいから、与那国で亡くなったという証しに、しるしに、無縁仏、無縁仏があるでしょう?と言うから、ありますよ〜と言ったら、入れてくださいと言われましたよ」


命を削った文章、原稿用紙30枚以上も書き上げた。そこには、今日の日米安保体制に対する率直な思いが、「敗戦と占領以来、米国軍隊がそのまま居座る形で今日までいわば惰性で維持されてきた日米安保条約を中核とする日米友好協力関係を国際社会の現状と展望の中で徹底的に再検討し、長期的かつ基本的な両国それぞれの利益と理念に基いて再定義することは不可避であり、双方にとって望ましくかつ有意義なことであろう。」   終わり

60年安保から数えて50年、半世紀。
沖縄の問題は「我々日本人の立場からすれば日本の領土問題であり、日本の国民感情の問題であり、沖縄100万人の人たちの人権問題であり、従って当然アメリカに向かって早く返してくれと要求すべきであるし、していい問題だ」と語り、自ら両国の間で返還のために働いた若泉。その結果は余りに酷い。
その結果責任を一身に背負って果たそうとした若泉の声。90年代には届かなかったその声を21世紀の今、昨年の政権交代、そして、普天間辺野古の問題を抱える今の日本人には届くはずですし、受け止めたいと思います。
また、若泉は、論文「沖縄をめぐる日米関係」のなかで、「沖縄が返還されることによって、日本人の対米依存心を弱め、対米従属のイメージを払拭することにも有効に寄与することであろう」とも書いていました。残念な事に、沖縄返還は基地の無期限使用を許す結果になり、若泉の願いも叶わず今日まで。
自立と安全保障の問題はいよいよ複雑になり憲法を絡めて、半世紀の間にねじれにねじれて撚りがかかった状態。
下手にネジレを解消しようとすると思わぬ方向にも行きかねない。それにアメリカとの関係は深くなり、アメリカの利益と日本の利益は一心同体と考える人たちや、アメリカとの関係のみが国際関係だと錯覚している人たちも生まれてきています。戦後に与えられた憲法では持てないはずの「軍隊・自衛隊」を持たされて、今はそのアメリカ自身がネジレて、日本自らが憲法を改正して軍隊を持ちアメリカと共同作戦をと望み始めています。
日本の自立(自主独立)を求めて、親分と「自立した子分」という関係にもなりかねません。
60年安保に賛成した人も反対した人も、その後の「愚者の楽園」数十年の責任を感じるなら、今、知恵を出して欲しいです。
過去に学び未来を切り拓いていく新しい日本の針路を強(したた)かに考えていかねばならない時がきているようです。