「かんさい特集・あなたの知らない奈良」

昨日の夜8時からのNHK「かんさい特集」は「あなたの知らない奈良」と題して
渡辺あゆみさんのナレーションで4話ほどが紹介されました。(ちょうど、今朝10時から再放送がありました)

阿修羅像を救った男ー岡倉天心「再発見!日本の美」。
明治の廃仏毀釈で仏像が打ち捨てられ薪にされた時代。フェノロサの通訳で若き岡倉が奈良を訪れ、その有様に心を痛める。
岡倉天心は文部省に意見書を提出して、救出を訴えます。洋行して西洋では作品のオリジナリティーを尊重して欠けた彫像でもそのまま展示することを知ります。日本に戻った岡倉は数年後、日本美術院を立ち上げる。仏像は信仰の対象でありかつ美術品でもある。天心は新しい修復方法を考えます。本体を出来るだけ残したままにして欠けた部分を足すという「現状維持修理」で、あえて修理しない部分も残した。

薬師寺金堂の再建秘話ー高田好胤「金堂再建の情熱」。
昭和37年の薬師寺境内で修学旅行生に日本のお寺についての熱心に語る若き高田好胤の姿が映像で残っている。
外国人からこんな粗末なお堂に飾っておくくらいなら仏像を売ってほしいと言われた高田はショックを受ける。その頃は亀井勝一郎が唱える「滅びの美」が全盛の頃。特に亀井は「薬師寺の荒廃ぶりはみすぼらしくなく、堂々としていてよい」と褒め称えていた。それに反して高田は悩む。「滅びればよいのか。なくしてしまっては・・・、その時代を背負った人たちによって加えられてこそ歴史」と金堂再建を決意。再建には10億円の建設資金が必要。
高田は出来るだけ多くの人の力で実現したいと、一巻千円の「写経勧進」を思いつく。
「百万巻写経勧進」は夢物語と言われ、実際、最初の半年で集まったのはわずか1万巻。全国行脚で宣伝。テレビにも出演、タレント坊主と揶揄されるも怯まず、伽藍復興と写経勧進を推し進め、修学旅行の生徒さんに訴えたと同じように全国の人々に訴えた。5年後50万巻、その2年後、100万巻、達成。

問題は大工。法隆寺の伽藍の修理を手がけた古代木造建築の第一人者、宮大工の西岡常一に頼む。62才の西岡は、集大成の仕事として引き受ける。絵巻物の絵図のみ、残る東塔を参考に木組みや尺度を調べた。古い木は外側を削れば木の匂いが残っている。1000年の寿命を持つ木は切り倒された後も1000年の命を持つ。「昔の姿を残しておけば1300年後にまた蘇る」。西岡は槍鉋(カンナ)で柱を削る方法を復活。木の繊維を痛めず長持ちする。三手先という枡を3回繰り返すことで強度を増す方法も取り入れた。

昭和51年の薬師寺金堂落慶法要に高田好胤西岡常一の二人が並んで立つ。西岡の言葉、「31世紀の人々はこの伽藍とどんな対話をしてくれるだろうか」。

明日香村の景観保存ー犬養孝「景色の中に見つけた万葉の心」。
1966年〔昭和41年〕から1200箇所の万葉集縁りの地を全部訪ねた万葉学者の犬養は言う、「どこにでもある景色に万葉の心が入ると不思議に生きてくる」。
昭和42年、開発が進む中、甘樫の丘に歌碑をたてて保存のシンボルにしようとした。「1970年代に日本の古里の飛鳥が消えてしまっていいのだろうか」と「飛鳥古京を守る会」を作り、70年には佐藤総理を飛鳥に呼び「国として取組む」約束を得る。
しかし、景観保存で住民の生活が制約を受けるという問題があり、昭和55年(1980年)には通称「明日香法」という法律が出来、税金の減免措置などが取られた。犬養さんの願いは、「万葉の故地がそのままにいきているので、できるだけ心の宝物は残してください。」

平城宮跡(古代史の宝庫、宝箱)−「平城宮を守った男」
今も発掘調査が続いている広大な平城宮跡。なぜ開発の波に飲まれず残されているのか。
その広場に立つ棚田嘉十郎の銅像。この棚田嘉十郎こそ、人生の全てをかけてこの土地を残した人。
江戸時代の1860年生まれの植木職人。ある時、「奈良の都の宮殿跡はどこにあるのですか?」と聞かれ、訪ね歩いて、荒れ果てた野原になっている土地を見て、七代の天皇が治めた地を残そうと考えたのが、37歳の時。
出土した色瓦を買い集め、それを見せて協力者を募る。その中に、貿易商の溝辺文四郎が。少しづつ、協力者が生まれた。
棚田は、東京へも出向く。当時汽車賃が10円、小学校教員の初任給と同じ。40数回の上京を重ね、明治36年、「平城宮蹟保存趣意書」を仕上げる。
37歳で決意して7年後、やっとスタートと言う頃、明治37年日露戦争。保存どころではなくなる。
当時の暮らしぶりについて、孫の坂口千津子さんの話では、「母からおじいさんの顔に泥を塗ったらアカンよとずっと言われた」。家計は苦しく土地も植木も売り払って米が買えず、「遠足に行ったことがなかった。おかゆだったので」。
日露戦争後も遅々として進まず、ようやく、明治42年の秋、翌年の43年に「奠都1200年」の「記念祭」の話が持ち上がり、寄付金集めを依頼される。
棚田は宮内省から御下賜金をもらうことを思いつき、働きかける。43年4月、御下賜金300円が奈良市に。漸く人々の関心を集める事に成功、市民の関心が一気に盛上る。明治43年(1910年)11月、3000人の提灯行列。大阪、京都からも5万人の見物客。これを切っ掛けに保存運動が。
大正11年(1922年)10月、10ヘクタールの土地が平城宮跡として史跡に指定された。棚田嘉十郎が活動を始めて26年、しかし、棚田の姿はない。嘉十郎は宮跡保存の土地買収のトラブルの責任を取り、前年の大正10年(1921年)8月、自らの命を絶っていた。
(←6日の日経朝刊「近畿経済」面の記事より)
今年の遷都1300年祭、完成した朱雀門大極殿のお陰で、平城宮の華やかな姿を思い描けるようになりました。でも、この広大な広場を残す努力をした人のエピソードは初めて知りました。平城宮跡朱雀門前に立って指差す先には大極殿が建っているという棚田嘉十郎の銅像、今度は、是非見てこようと思っています。