明けましておめでとうございます 今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます
] 一緒に考えるお仲間と二匹でご挨拶
今年の大晦日は、夫が山仲間と甲斐駒ケ岳で新年を迎えるため、留守宅は私と息子。
「紅白」が始まる頃に夕食、終わる頃に年越しそばを用意して、行く年来る年でした。
明日夜無事に帰ってくるまでに・・・年明け最初の一冊を。
- 作者: 寺島実郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2009/12/16
- メディア: 新書
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書評欄を読んで、機会があったら読みたいと思った本を、毎年手帳に書きとめています。それが、毎年、メモするだけで読まずに新しい年の新しい手帳に移って、また、同じように読みたいだけの本の名前が・・・というのを、止めて見ようと、暮れに心残りの本をまとめ買いしました。図書館を当てにしないで、読みたいときに読みたい本をという贅沢を、個人年金が出る間は、許してもらおうと数冊張り込み?ました。その一冊がこれです。
日曜の朝、関口さんがキャスターをやっているTBSの番組に、コメンテーターとして寺島実朗氏が、時々出演されているのを見ていました。1昨年の12月に、官邸に岡本行夫氏が鳩山首相を訪ねるまでは、首相のアドバイザー的な役割もされていたと思います。買いたいと思った直接の切っ掛けは、年末のNHKの「安保50年」の最後、第4回の討論番組での寺島氏の発言でした。「やはり、読んでみよう」と思いました。
はじめに・・・過去と未来とをつなぐ中間点に、微妙な危うさのなかで、私たちは立っている。
「これからどうすべきなのか」と未来を見つめる時、過去にしばられすぎてもいけないが、勇気をもって過去に踏み込む事が必要である。
過去から現在へとつながる筋道を検証することによってのみ、未来を生きるための知恵が得られる。
第一章 時空を越える視界 ー 自らの固定観念から脱却するということ
戦後という特殊な時空間ーーーアメリカを通じてしか世界を見なくなった戦後日本人
1.ロシアという視界、2.ユーラシアとの宿縁、3.悠久たる時の流れを歪めた戦後60年
徳川幕府がロシアを意識し始めたのは、漂流した大黒屋光太夫が1792年に、10年のロシア滞在後、送還される時、ラックスマン一行が女帝エカテリーナの親書を携えて遣日使節としてやってきたときであった。
次にロシア皇帝に謁見した日本人も、翌年漂流した津太夫ら乗組員一行であった。16名中6名は病死、6名は気化、4名が、1803年、アレクサンドル一世の親書を携えた外交官レザノフの世界一周航海の一環として長崎に着いた。レザノフ一行は、長期にわたって待たされた後、重症関係樹立を拒否されて、帰国を余儀なくされた。幕府は、これ以降、明らかにロシアを意識することになる。1806年、箱館の松前藩、本州の津軽藩、南部藩にも蝦夷地警護を命じる。1807年には、蝦夷地全域を幕府の直轄とする。仙台・秋田・会津の諸藩からも4000人にも及ぶ軍勢を動員して、択捉や樺太の守護に当たらせる。
一方ロシアでも、1860年、ウラジオストック建設が始まる。その前、1855年に日露和親条約締結。1858年、箱館に初代ロシア領事着任。1859年、日米修好通商条約により箱館港を国際貿易港として開港。
以後、日本は、ウラジオストック建設を横目に見ながら、箱館を基点に蝦夷地開発を加速させ、明治に入ってからも北海道開拓と言う形で北方の守りを強化していく。ロシアが極東に進出すれば、日本も北海道に進出する。極東ロシアと北海道は、ほとんど相似形ともいえるほど非常に似た歩みで開発されていく。
「ロシアという視界」に書かれている日本とロシアの関係史からピックアップしてみましたが、昨年の「坂の上の雲」と絡んでとっても面白いです。
こんな風で、読み易く、視界が開けるような、視点を入れ替えたり、関連付けたり、切り離したりの作業を通じて、世界と日本を客観的に見ると、どう捉え直せるか・・・という面白さがありますので、是非、読んでみて下さい。
第一章の3の「歴史時間を忘却した日本人」での指摘も的確です。
これまで見てきたように、私たち日本人の体内には、中国などアジア・ユーラシアを起源とする二千数百年にも及ぶ歴史時間が蓄積されている。一方、1945年から始まった戦後は、わずか60年あまりにすぎない。
ところがこの60年あまりの間に、わたしたちは、自らの体内に蓄積された膨大な歴史時間を忘却するほど、異様なまでにアメリカに影響され続けてしまった。あたかも、1日の最後の30分間に起こったことによって、それまでの23時間あまりに経験したことすべてを忘れてしまったようなものである。日本人の中国に対する態度は、夏目漱石も語っているように、日清戦争(1894〜1895年)を境にして激変したといわれる。日清戦争以前の中国は、日本人にとって尊敬、信奉、敬服の対象だった。
しかし、日清戦争に勝って、それが変わった。一転して中国を侮蔑し始めるようになるのである。それまで、ある意味、劣等感さえ抱いてきたのが、「優越感」に反転してしまったのだ。およそ100年前の話である。
第二章 相関という知 ー ネットワークのなかで考える
1.大中華圏、2.ユニオンジャックの矢、3.ユダヤネットワーク、4.情報技術革命のもつ意味、5.分散型ネットワーク社会へ
日本人のように、中国大陸だけを考えるのは狭義の「チャイナ」で、世界が「チャイナ」という時は、台湾もシンガポールも含んだ広義の「チャイナ」だという、そして「世界を動かすユニオンジャック」で語られる「ユニオンジャックの矢」。ロンドンから一直線に並ぶ都市。シンガポールは大中華圏とユニオンジャックの矢が交差する中継点としての位置づけ。 (←イラストから)これらの都市はイギリス連邦の財産、共通言語・文化価値・社会的インフラの「埋め込み装置」として立派に機能して、ネットワークとして現在に生きているという考え。ユダヤネットワークの基軸は国際主義と高付加価値主義である、など世界を知るためのヒントが語られます。
「第四章 世界を知る力」に著者が2003年の暮れに、加藤修一氏を訪ねた時のことが書かれています。その部分から引用して終わります。
加藤修一「知的活動を先へ進める、ある方角へ進めていく力は、知的能力じゃないと思うんです。それは感情的な、一種の直感と結びついた感情的なものだと思います。…ところが、その感情が、麻痺した、日本で。…いくら頭がよくても駄目なんで、目の前の子どもを殺されたら、怒る能力がなければなりません。或いは何か一種の感情を生じないと駄目です。…情報を集めただけじゃどうにもならない」(略)
寺島実朗「私たちは「世界を知る」という言葉を耳にすると、とかく「教養を高めて世界を見渡す」といった理解に走りがちである。しかし、そのような態度で身につけた教養など何も役に立ちはしない。世界を知れば知るほど、世界が不条理に満ちていることが見えてくるはずだ。その不条理に対する怒り、問題意識が、戦慄するがごとく胸に込み上げてくるようでなければ、人間としての知とは呼べない。たんなる知識はコンピュータにでも詰め込んでおけばいい。
世界の不条理に目を向け、それを解説するのではなく、行動することで問題の解決にいたろうとする。そういう情念をもって世界に向き合うのでなければ、世界を知っても何の意味もないのである。」
著者略歴から:寺島実朗・1947年北海道生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程終了後、三井物産に入社。調査部・業務部をへて、ブルッキングス研究所(在ワシントンDC)に出向。米国三井物産ワシントン事務所長、三井物産戦略研究所所長、日本総合研究所理事長、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授、三井物産常務執行役員等を歴任し、現在は日本総合研究所会長、多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長。
司馬遼太郎氏が明治にはリアリズムがあったと昭和を嘆いておられましたが、経歴を見ると、寺島氏の発言が一見理想論にみえて、現実を見据えた解決策としていつも心に残る背景が分る気がします。
今年も寺島氏の発言には注目していきたいと思います。