NHKスペシャル「北方領土」

昨日の月曜日、午後から本降りの雪。水っぽい雪が降り続き、積もり始めました。シシガシラ(寒椿)にも雪が…
 お昼のニュースではグラミー賞で日本人4人が受賞。
ジャンルもそれぞれです。ロックバンドのギターでアメリカのソリストとともにB'zの松本孝弘さん、クラッシックのピアニスト、内田光子さん、モーツアルトのピアノ協奏曲23番と24番の演奏でソロの最優秀楽器演奏賞とか。私が昨年、サントリーホールで聴いたのはベートーヴェンでWメスト指揮のクリーブランドオーケストラでしたが、対象のモーツアルトは同じクリーブランドとの内田さんの弾き振り(ピアノを弾きながらオケの指揮もする)です。昨年のイギリスでの快挙(”ディム”称号獲得)に次いで今年も。琴の演奏でニューエイジ・アルバム賞に杉山夕喜子さん、そしてジャズピアニストの上原ひろみさんがコンテンポラリー・ジャズ・アルバム賞。
グラミー賞のクラシック部門で日本人というのも珍しい?とビックリしましたが、109部門にわたって、音楽業界人の投票で選考して受賞者が決まる世界最高峰の音楽賞で、今年が第53回だそうです。昭和33年から続いているわけですね。日本人の熟年から若い人たちまで、ジャズからロック、クラシックから和楽まで、と幅広く活躍され、国際的に評価されて、凄いですね!!

日曜日のNHKの番組「北方領土・揺れた日本外交」は、前原外相のロシア訪問に合わせた番組で、過去の経過をおさらいする内容でした。年表風に書いてみますと:(番組以外に、私の関心のある共同宣言前後をWikipediaから付け加えました)
1855年、江戸時代!の松前藩の日露友好条約で北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)は日本のものと表記。
1905年ポーツマス条約で樺太南部割譲。
1941年、4月13日、日ソ中立条約(日ソ相互不可侵)(スターリン/モロトフ松岡洋右が調印)。11月、これで極東軍を西部へ移送しモスクワ防衛戦に投入。ドイツ軍の年内ソ連崩壊をねらったバルバロッサ作戦失敗。
1945年、4月5日、翌年期限切れの同条約をソ連は延長しないと日本に通達。8月8日深夜、日ソ中立条約の破棄を宣言。「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告。9日午前零時をもって戦闘を開始し、南樺太・千島列島及び満州国朝鮮半島侵攻。

1951年、サンフランシスコで日本国との平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結。講和会議に中国の代表として中華人民共和国招請しなかった事に反発するソ連は、会議には出席したものの、条約調印は拒否。1952年4月28日の条約発効とともに日ソ両国の接点は失われる。

1953年スターリン死去と朝鮮戦争の休戦は西側諸国との関係改善をより積極的に進める要素となった。日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相が1954年に退陣し、保守派ながらアメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代した事で、外交交渉開始への環境が徐々に整っていった。また、日本の国際社会復帰を完成させる国際連合加盟には、日本の加盟案に対して国際連合安全保障理事会で拒否権を発動するソ連との関係正常化が不可欠であった。

1956年、10月12日鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連歯舞群島色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされ、10月19日、モスクワにおいて鳩山首相ソ連のブルガーニン首相が共同宣言に署名し、12月12日に発効。
この2島返還について、アメリカのダレス国務長官が日ソ接近を警戒し、「もし2島にすれば沖縄はもらう」と待ったをかける。(番組より)

1960年、日米新安保条約。グロムイコ外相は門脇駐ソ大使に、日米新安保条約を非難する覚書を手交し、「歯舞、色丹を引き渡すというソ連政府の約束実現を不可能とする新しい事態が作り出されている。ソ連政府は、日本領土からの全外国軍隊の撤退と平和条約の調印を条件としてのみ、歯舞、色丹が共同宣言に規定されているとおり、引き渡されるであろう」と通告。以後、日本は4島一括を掲げる。

番組では、4島一括返還という日本の主権の確認を主張し、当面の施政権はロシアという冷戦時代から、50年代に入って2島で決着に変化した時期について、興味深い話が紹介されていました。日ソ交渉の研究者であるアメリカ人学者、ワシントン大学のドナルド・ヘルマン教授が、ロンドンでの日ロ交渉にあたった松本俊一全権大使をインタビューした記録です。ヘルマン教授は、松本は明らかに段階的な要求を用意していた、まず第一要求は樺太半分を含めたもの、第二は千島4島、第三に2島(歯舞・色丹)、そして決着の自信ももっていた。そして、相手方のロシア側でも、当時の内部文書には、歯舞・色丹のロシア人全面引き上げを計画、返還に備えて廃村を予定していたという。

最近の年表は:1989年ベルリンの壁崩壊。 1991年ソ連崩壊。 1998年エリツィン・橋本会談。
ここから、二人の元外務省のお役人が登場。一人は4島一括返還を主張する元外務審議官(97〜99)の丹波寛氏と、元欧亜局長(99〜01)で2島返還を主張する東郷和彦氏。原則論と現実論の対立が外務省の中にあったということです。

東郷氏の現実論では、2島を返還すると書かれた1956年の日ソ共同宣言を土台に交渉する。 鈴木宗男氏も、まず2島、残る2島は粘り強く交渉してという並行協議案が現実的だったと。2001年プーチン元大統領は、NHKインタビューで「日本の経済支援を期待している」と述べ、1956年の共同宣言では2島を引き渡すと書かれているとふれて、返還の可能性について述べた。ところが、国内では思わぬ批判をうけ、「4島一括」の原則論が巻き起こる。そして、鈴木氏逮捕、東郷氏免職。ロシア側は交渉の意欲を失って、その後、多額の経済援助で島の実効支配に精力をそそぐ。かつては、島のロシア人たち自身が「ロシアから見放されている」と日本返還に同意する人たちも居たが、今では、生活、教育、福祉、娯楽面で行き届いた支援をうけて愛国心に燃え、「渡さないわよ」という住民たち。経済的には日本の高度な技術や知識を求めているロシア、一致できる所からやっていこうと、現実的でもあって・・・。

二島返還のチャンスがあったのに惜しかった・・・というと駄目なのかな? 
国論が一致しないというか、国会議員や世論も詰めてないから、官僚にも対立が起きるのでしょうか? 
国会で議論すべきことがたくさんあるはずですね。当時、「ムネオハウス」が国会で問題になった時期、私もマスコミや国会議員たちの追及に無批判の言いなりでしたから、鈴木氏はとんでもないワルだと思っていました。その後、佐藤優氏の一連の著作を読んで、「国策捜査」という言葉を知りました。日ソ関係で、佐藤氏と鈴木氏を失って、国益の損失はきっと計り知れないだろうと同じ本を読んだ友人と電話で話したこともありました。
政権交代で、本当に変えなければならなかったことが変えられたのでしょうか?
今の菅さんのやっていることが、自民党よりも自民党らしいなんて言われるぐらいでは、「この先」が本当に思いやられます。
 政治はつくづく分らないと思いつつ、分らないでは済まされないとも・・・