夏至翌日の真夏日

朝のコーヒータイムで昨日仕上げたアジサイを母に見せました。
あいている所に俳句でもと言ったら、一句書いてくれましたので、切り取って貼り付けてみました。
「紫陽花に 軽くすませる 昼はそば」


11時過ぎ、夫の車に乗って3人でお見舞いに。
手渡した作品に母が解説です。早く元気になって帰ってきて欲しいということよ。で、父が分ったかどうか・・・。

ゼリーが2粒出るようになってスプーンで食べたということでした。「悪い方ではなくて良くなってるんだから」と父らしい言い方でした。「食欲はまだない、管で栄養取っているから」とも。
「なんで、市立病院に来たのかな〜」と言うので、皆で一週間前の出来事のおさらいをしました。喉がいがらっぽくて耳鼻咽喉科へ行ったのに、どうしてこんなことに?の辺りがまだ納得いってないようです。90歳過ぎた高齢で入院するとボケが来るのが普通と昨年の入院時に循環器病センターで言われましたので、毎日二回、病室まで行って話しかけるようにしています。夫は朝刊・夕刊を買って渡してくれています。昨日は私が折紙教室だったので、夫は一人でマウンテンバイクで病院まで。
[ 俳句の「昼に蕎麦」通り、帰りはバイクで走っていて見つけたという蕎麦やさんへ寄ることに。家からそう遠くない所なのですが、滅多に通らない所にあるので、前からあったのか最近出来たお店なのかも分りません。かなり本格的な手打ちの蕎麦屋さん。電動石臼が今日は北海道の蕎麦を粉に挽いていました。
テーブルにおいてある塩はヒマラヤの岩塩とかで、薄いピンクの水晶みたいな塊です。出されたお茶は韃靼そば茶で香ばしい香りがします。サッパリと美味しいお蕎麦で、母は父が退院できたらお父さんと二人で来てみようと喜んでいました。
先日、母が珍しく昔話を。私の父は昭和19年、外地へ遣られる前の身体検査で肋膜と分り、東京から本籍地の国立病院に送られて入院した事があります。私は生まれていて、母の実家に二人で居候していた時のこと。母は、お見舞いに行くと白い骨壷になって引き取られる人を沢山見た。あの時、父は幸運にも命が助かり、その後、サラリーマン生活で子どもも3人になり、無事生きてきたので、幸せな人生だったのだと、一晩かかって納得したのだということでした。
長女の私は、その頃の話を若い母から聞かされていて、母が口ずさんだ軍歌や女学校時代の叙情歌と一緒に良く覚えています。私の年齢から一つ引き算すると日本の戦後になります。父、母の世代は90代で、大正は15年間ですので、今85歳から100歳までの方たちがそれに当たります。ということは昭和生まれは84歳から下。戦前生まれはだいたい70歳以上ということになりますね。話が飛んでしまいました。
さて、先日のヨーガ、終わった後、同じビルの3階の会議室に場所を移して先生主催の茶話会に。先輩さんお二人はオニギリやアップルパイも差し入れて下さって、パンと各自持参の飲み物で賑やかに始まりました。その中で、原発の話になり、政府や東電の対応のまずさへの批判や放射能汚染についての話になり、最後に、「原発なくてもやっていけるのかしら?」と言う人がいて、私は小出さんのお話をしました。「やっていける。夏場のピーク時意外はそんなに問題じゃないし、水力火力を働かせればいけるそうよ」と言ったのですが、来週はもう少し説得力ある説明を用意して行こうと思っています。
今朝の生き生き箕面通信さんは、丁度その問題を取り上げてくださっています。(こちら:http://blog.goo.ne.jp/ikiikimt週刊朝日を買ってこなくちゃ。

↑メダカを3匹飼っています。2匹写っていますが・・・