追記(「原子力神話からの解放」)

著者の高木仁三郎氏は、「本書は、原子力文明からの転換ということをはっきり主張する立場に立って書かれています」と断ったうえで、「この半世紀にわたる文明的な状況の必然の流れとして、世界全体が原子力を放棄することが賢明な選択であると気づきつつあるのではないかと思います。もしくは、一刻も早く選択をしなければ誤ったところ、恐ろしいところへ行くのではないかということで、社会的に人々は選択しつつあるようにも思えます。」
まさに、11年後の今の私たち日本人の立場を先取りしたような言葉だと思います。


先ほど届いた小学館の「本の窓」の7月号には、菅原文太鳥越俊太郎の連載対談「外野の直言・在野の直感」の第八回「もう科学はいらない」のなかで、この「文明の転換」と共通する考え方を二人が話し合っています。

鳥越:人間が、もしくは人間がつくっている社会が目指しているものは豊かさなのか、そして豊かさ=幸せなのかということを考え直してみる必要があると思いますね。何でもある、電気で何でも動く社会を日本は実現したけれども、それが本当の幸せなのかと・・・
その豊かさの陰には、実は原発と言う不気味な存在があったということが今回の事故ではじめて露呈したわけですね。そのことでわれわれは、この極めて危険なものをかかえながら豊かな社会を維持していくということでいいのか、問われているのだと思う。
 < 略 >
菅原:経済が世界で何番目だなんて言っている日本では、ちっぽけな、庭もないところにみんな住んでいるわけじゃないですか。とすれば、これから日本が目指すべきはどんな国なのか、そしてわれわれは何を望むのか − それが今、問われているんだろうね。


三つ目に引用するのは「クロワッサン」7月10日号より、生命科学柳澤桂子さんの言葉:
危険だとわかったら、技術として用いないと決断することが、人間の良識なのではないでしょうか。」
「太古からの生命を受け継ぎ、未来へとつないでゆく結節点に自分があることを意識したときに、その連続性を切断しかねない原子力を利用することは、必要不可欠なものなのかという根源的な問いが立ち上がる。」
震災で亡くなった人は無念だったでしょう。その無念さに応えることが、生きている者のつとめだと思います。」


お玉さんがこだわった件(6月30日ブログ:http://potthi.blog107.fc2.com/)は「クロワッサン」側が謝罪したようです。
記事を読んだ私は、科学的に本当のことであまり問題にならないのではと思いました。それよりは、「温度差」と題したブログ(http://d.hatena.ne.jp/kataomoimama/20110628/1309221047)で書かれた内容の方が今は問題なのではと思います。
「正しく怖がる」ことが大事だと思います。過剰反応も風評も差別も良くありませんが、正しく心配し、正しく予防することは大切です。その前提が情報公開だと思いますが、それがなされていないのですから、まずは知る事から始めなければならなくなっています。