「核をめぐる対話」(2)

前回でのアイゼンハワーの国連演説と日本への原発導入のいきさつについて、高木仁三郎著「原子力神話からの解放」から同じ箇所を拾ってみました。
第2章の<「原子力は無限のエネルギー源」という神話>、第4章<「原子力の平和利用」という神話>でもふれています。
ここでは、第2章から端折りながら引用してみます。

政治的な目的の宣言だった「アトムズ・フォー・ピース」
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… 核の平和利用、商業利用というのは積極的なものとして打ち出したものではなくて、むしろ水爆開発まで行き着いた米ソの核競争というなかにあって、いわば米ソ共同で核を管理しようと言う呼びかけだと思います。その後の核非拡散条約のもとになるような体制作りを、この演説でアイゼンハワーは提案しています。
いわば、きわめて政治的に「アトムズ・フォー・ピース」は宣言されたわけです。核の軍事利用や拡散を抑えるために、アメリカあるいは米ソが主体となって、商業利用というところに目を向けさせます。その結果として核兵器技術そのものは、むしろ米ソがほとんど独占的に管理する、そういう戦略的な構想のもとにこのスローガンが提案され、そこから商業利用が始まったと考えられます。


産業的な必然性がなかった原子力利用
このような政治的な上からの導入は、他の産業技術と比較してみると、きわめて特異的なことだと思います。
ある技術が生まれると、それは、実際の産業性に結びつきながら、技術がステップバイステップで発展していって、それが社会で試されながら悪い所はまた直されていく。経済的に成り立つかどうかというチェックを受けながら、社会的にもフィットした技術が商業利用の技術として定着していきます。こうして、それらの技術を取巻く産業が発展していくという形態をとってきました。
ところが、原子力はそうではなくて、むしろいきなり政治的に、開発すべきであるという状況がかなり強引に押し付けられてきました。


ある青年政治家による強行突破
1954年の3月2日、これは特別な日です。その前日の3月1日に、後に久保山愛吉さんが亡くなることになる、死の灰の惨状をもたらした、あのビキニの実験が行われています。時同じくしてその翌日の2日に、突如として国会に原子力関連の予算案が出されて、それが国会を通過したのです。
その中心的な役割を担ったのは、当時、アメリカで勉強してきた原子力に非常に乗り気であった、中曽根康弘という青年政治家だったのですが、それはまさに、学術会議の学者たちにとっては寝耳に水の出来事でした。
「札束で学者のほっぺたをひっぱたく」といった言葉がその当時使われました。
死の灰と闘う科学者」(岩波新書、1972年)を書いた三宅泰雄さんの言葉を引用します。
「3月2日に突如として原子炉予算が、予算修正案の形で衆議院に提出された。これは、当時の野党の一つであった改進党からの提案だった。この追加予算案は与野党三党(自由党日本自由党、改進党)の共同修正案として、たいした議論もなく3月5日に衆議院を通った。
その内容は、2億3500万円が原子炉を作る費用、ウラン資源の調査費が1500万円、チタン、ゲルマニウムなどの資源や利用開発のための費用が3000万円、図書、資料費が2000万円、合計3億円であった。この予算案は参議院におくられ、自然成立の形で第19国会を通過した。
この原子炉予算をつくったのは、当時の改進党所属の代議士中曽根康弘、斉藤憲三の両氏、ほか数名といわれている。中曽根氏は、後にそのころのことを次のようにのべている。
「学術会議においては、(原子力の)研究開始にむしろ否定的な形勢が強かったようであった。私は、その状況をよく調べて、もはやこの段階に至ったならば、政治の力によって突破する以外に、日本の原子力問題を解決する方法はないと直感した。…国家の方向を決めるのは、政治家の責任である。…」(日本原子力産業会議、『原子力開発十年史』、1965年)」


このように、政治的に唐突に、原爆体験から十年も経たない1954年、折りしもビキニの年に、あの放射能の惨事に多くの日本人が目覚めた、広島以上に目覚めることになった、そのビキニの年に原子力導入が強行されたのです。 ・・・・・・・


所詮、自然な技術導入のされ方ではなかったわけですから、後になってもめることになる、さまざまな神話を必要としたのです

写真集「核の大地」の出版は1990年11月、「原子力神話からの解放」の出版は2000年8月です。
大江健三郎氏がモスクワでプラウダの科学部長と核について語り合う場面が「核をめぐる対話」にありますが、1986年のチェルノブイリ原発事故の4年後の1990年です。事故を取材、世界に発信したウラジミール・グーバレフ氏は、「これから50年、核エネルギーなしに人類はやっていけない。しかし、今のところ十分に安全な管理下に利用しているとはとても言えない。そういう時が来るのは21世紀初めごろではないかと予測している」と発言。
それに対して、大江さんは、一見、申し訳なさそうに(?)、でも毅然と、「確かに頼らないといけないかもしれない。代替エネルギーがあるのかと問われれば、私にはわからないけど、核廃棄物を安全に処理できるようになるまでは、動かすのをやめたらどうか。まして、日本は地震が多いし、我々の未来がかかっている」と発言します。
21世紀の初めには原子炉の安全管理が実現しているだろうという予測は、福島の原発事故により見事に裏切られました。
20年前、あるいは、10年前に、戻る事ができたら・・・と思いますが、福島がなければ綻びかけた神話の効力はまだ大きかったのかもしれません。山田洋次監督ですら、原子力の最終処理の方法がまだ無いということを福島の事故で初めて知ったと仰っていました。そして、静かに「広島・長崎ですでに怖い経験をしているんだから、引き返してもいいのじゃないか」とも言っておられました。
「核をめぐる対話」つづく。