「核をめぐる対話」を見て(4)

なでしこジャパン、あきらめないサッカーで、優勝!! おめでとう!
PK戦は気力も技術もアメリカを圧倒して見事でした! 
サッカーは、別記事で。「核をめぐる対話」、最後の感想をアップします。


この第五福竜丸の元乗組員で、アメリカのビキニの水爆実験の被爆者である大石又七さんと、ノーベル文学賞受賞者である文学者大江健三郎さんの対話は、見終わってみると、なぜか協奏曲を聴いた後のような味わいが残ります。
楽章を貫く通奏低音というか、メインテーマは大江さんが、各楽章の印象的なメロディを大石さんが奏でたような。受け止めて響き返す大江氏の魅力が光っていますし、大石さんのカデンツァも利いています。

ところで、対話の中、20代の大江氏が原水爆禁止世界大会ルポルタージュするため広島を訪れた時のお話です。解説が入って、<日本の原水爆禁止運動は、ビキニ事件の翌年からスタート、丁度米ソが核実験を繰り返す時期。ビキニから8年後の1963年は、第9回目に当たり、分裂・紛糾・大混乱の大会でした。「いかなる国の核実験にも反対する」という原則を堅持する社会党と、「社会主義国核兵器は核戦争を阻止する力になる」として核実験を擁護する共産党が対立した。反核に結集しようとする世界の声が踏みにじられていく現実に大江さんは絶望していた>。

ここで、大江さんは、核抑止論について語ります。「deter」というのは、本来、恐怖を起こさせ思いとどまらせる、という意味で、「脅してやめさせる」とか「相手を暴力で脅かして縮みあがらせる」ということなのですが、日本では「抑止力」という、弱いものが強いものの力を借りてという何か平和的な感じに訳したのですね。本来は、もっと暴力的なものです。

確かこのルポが「ヒロシマ・ノート」という作品になったのですね。私は15年ほど前、息子が大江健三郎を読んでいたので、読んでみようと思いました。「万延元年のフットボール」から、四国の森の物語を読んでいるうちにこの「ヒロシマ・ノート」を知りました。読んでみて、ビックリ!!でした。18歳の大学1年の最初の夏がマザマザと思い起こされました。結婚前の遠い過去は、紗の掛かった遠景であって、思い出そうとしても、彼方に霞んで一つ一つがクリアに取り出せるわけではありません。ところが、「ヒロシマ・ノート」は私の18歳の夏の出来事を特定してくれました。
私の大学は、当時の言い方では「公立の二期校」で、国立の一期校の「滑り止め」に受けた大学でした。私学はとても出せないし浪人もダメ、国公立ならという、当時の裕福ではない家庭の三人姉妹の長女が大学に行きたければ、それしかないという選択だったと思います。私は大学へ入って、サークル活動のほかに、「平和委員会」という会に誘われて顔を出していました。学生大会でも「いかなる国」問題が取り上げられていて、今も年に数回会う友達と、なぜ「いかなる国の・・・」がいけないのか、なぜ反対するのか分らないと話し合ったりしていました。三宮や元町に、核実験反対やベトナム戦争反対の署名を訴える活動に出かけたりしているうちに、京都の大会の分科会に参加するように言われました。あれが、1963年の第9回原水禁大会の地方大会だった!ということを知りました。
高校1年生が60年安保ですから、3年後に大学1年で、計算も合います。アメリカはベトナム戦争中で、神戸港にも米原潜が寄港し、突堤に出かけて「ヤンキーゴーホーム!」と叫ぶデモに参加したこともありました。
その大学の普通の学生が普通に参加して当り前の時代でした。これが私の大人になるための儀式だったのかもしれません。
内田樹の研究室:「若者よマルクスを読もう・韓国語版序文」が面白いです(http://blog.tatsuru.com/2011/07/16_1115.php)
でも、確かに大学の中にも、社会党系と共産党系の対立は持ち込まれていて、大江氏が「絶望」を感じる平和運動の分裂があり、日本のもう一つの不幸の始まりの年の1963年だったことを「ヒロシマ・ノート」で知ったのでした。平和運動や労働運動など、日本の民主的といわれる人たち(勢力)が「分裂」していたことが、日本において「原子力安全神話」がこんなにも簡単に広範囲に長期に信じられてきた一因だったのかも知れないと思ったりもします。

「対話」の番組の中では、大江氏にとって、この広島の体験が個人的にも大きな岐路だったことにふれます。
この2ヶ月前、障害を持った長男、光さんが生まれていて、生死を彷徨っていた。8月3日の夜、大江さんは、灯篭流しで、灯篭に光さんの名前を書いて流す。1994年のインタビューに答える大江さん。生きているのに、死んだ人間として扱っている自分は、退廃してセンチメンタル、自分が嫌だったという。
この旅で、大江さんは、広島原爆病院院長の重藤先生に出会う。<先生自身も被爆者であるが、翌日から数え切れない患者の治療に当たられた。その先生に若い医師が「こんなに多くの傷ついて苦しむ人がいて、自分たちは無力。こんな事をして何になるのか?」と聞いた。先生は「目の前に苦しんでいる人がいる、治療に尽くすしかない」と答えた。若い医師は一ヵ月後自殺する。先生は「もっとよく話してやればよかった」と。僕は自分に言われたように思いました。重藤先生は「目の前に苦しんでいる人が居る。その人を救うために力を尽くすだけです」と言われる。>
大江さんは言います、「人生の前半、地方から東京へ出てきて、大石さんの場合は”怒りだった”と仰ったが、私の場合は屈折していた、それを書いた。しかし、それだけでは私は終わっていた。20代の終わりに障害を持った子が産まれたこと、広島で被爆者の治療に当たる重藤先生を知った事、私の人生の後半はこの時出来上がった」と。

大江氏の言葉でもう一つ。これは、大石又七さんが、どうして沈黙を破って語り始め書き始める事になったかを話した時に話されました。
大江氏の生まれ育った四国の大きな森の小さな谷間の村では、大人たちが冗談しか話さなかった。「どうして、村の大人たちは真面目な事を話さないのか?と思っていた。真面目な言葉が交換できるところ、意味のある言葉を言っていい所へ行こうと思っていた。」
「私が10歳、大石さんが11歳の時、終戦。1年後憲法が出来、2年で施行された。『平和を希求する』という憲法憲法の言葉はどうして真面目に書かれているのか? 私の母は、『それは、きっと、兄弟や子どもを戦争で亡くした人が書いたんでしょう。真面目で悲しい響きのする言葉を書く人は良い人です』と言っています。」

ロンゲラップ島の元村長ジョンさんは、まさに大江さんのお母さんの言葉通り「真面目で少し悲しい」感じの顔でした。
スリーマイル島の事故後の調査をした主婦メアリーさんの写真の顔も、同じ顔をしています。