「原発事故への道程」(前編)

9月18日に放送された「原発事故への道程」、25日今夜には後編が放送されます。
そろそろ前編の感想を書いておかないと、と思いつつ今日になってしまいました。
「番組に沿って逐一追っていくのではなくて、今回は私の感想のみを書いてみようと思います」と、書き始めて、本当に最初は正力松太郎原発の「経済性」を問題にした発言だけをと思っていたのですが、メモを辿っていくと、やはり事ここに至る過程が省けないと、叉、いつものような長い長い記事になってしまいました。

まず、この「原発事故への道程 前編」という番組には「〜置き去りにされた慎重論〜」という副題がついています。
原子力発電の黎明期から70年代の大量生産時代を迎えるまでです。出だしは東京電力原子力発電所建設にかかる1964年から6年半を記録をした短編映画「黎明」がうつります。海抜35メートルの台地を数台のブルドーザーが勢いよく削っていくシーンが紹介されます。原発建設のため10メートルの高さまで削っていくのですが、前回の特集「アメリカから見た福島原発事故」では、「岩盤に到達するため」と言われていましたが、今回は、削る理由の一つは建設に掛かる「費用をおさえるため」というナレーション。
今年3月11日東日本大震災、高さ13メートルの津波が押し寄せ、地下にある非常用ディーゼル発電機も浸水で故障、全電源喪失から炉心溶融を引き起こす大事故を起こした。豊田正敏元東京電力副社長は、「上に造れば津波を受けなかったかもしれないけど、発電所が造れたかと言うと・・・それは、造れたかもしれないけれど高いものにつくでしょうね〜」。
<事故に至るまで国や電力会社はどのような安全対策をとってきたのでしょうか>という問題提起で始まります。

通産省の官僚で日本の原子力行政の中枢にいた井原義徳さんは、非公開のある会合の録音テープを保管している。政治家や官僚、研究者、電力会社やメーカーのOBたちなどの100時間に及ぶ録音で、最優先されるべき安全性が置き去りにされた歴史が赤裸々に語られている。

会合は「原子力政策研究会」(都内雑居ビルの一室で月1回、1985〜94年で9回)で、主催者は島村武久という旧通産省原子力発電導入に携わった後、総理府原子力局長を歴任した人物。当時の本音を残そうと表向きの話ではない、当時語られなかった裏の話を日本の原子力政策を担ってきた人々に語ってもらう会合であり、井原も退職後この会合に参加していた。


最初の一人は東大名誉教授で原子物理学の第一人者の茅誠司氏。原子力事始めと黎明期を振り返って、昭和30年代の思い出話をと請われて、S27年の講和条約から話が始まります。それまで、茅氏は、学術会議の第4部長であり、原子力は自然科学の分野なので責任がまわってきた。戦前から物理学の最先端の研究をしていましたが、1952年「日本学術会議」にいち早く参加して、大阪大学教授伏見康治ら科学者ともに研究の再開を政府に呼びかけていた。

日本の物理学者は最先端の研究を行っていたが、終戦直後の1945年11月、GHQは大型の実験装置サイクロトロンを破壊。戦時中、軍部から原爆開発を命じられていたことから、戦後7年間研究は禁じられていた。「独立」後、再開を考える茅氏に真っ向から反対する学者が。広島大学の物理学者・三村剛昴(よしたか)である。彼は爆心地の近くに住んでいて被爆、同僚を亡くしている。被爆した人たちの血だらけの様子を「三途の川はこれかな」と言っていた。三村は研究が軍事利用されるのを危惧、「米ソの仲が平和になった時はじめて原子力の研究をすべきで、それまではダメ」と主張。時代は、米ソ東西冷戦に突入、1949年8月にはソ連が核実験。茅の再開の提案は「時期尚早」と圧倒的多数で却下され、継続課題となる。


島村原子力政策研究会の1988年3月18日の録音から:日本で最も早く原子力の導入を考えていた一人の人物について。当時中央公論森一久は、昭和23年(1947)12月の終わりに巣鴨拘置所にある人を迎えに行く。後藤文夫、東条内閣の国務大臣、戦後A級戦犯となり巣鴨に。森が言う、戦犯解除になって迎えに行ったら、巣鴨から出てきて、「大変だぞ、アメリカは原爆で発電しているそうだ。日本はエネルギーで戦争をしたんだから考えた方がいい。英語の新聞にそう書いてあった」というのが、原子力との始めての出会い。 日本で原子力に最初に注目した人ともいえる後藤は1952年10月、(財)電力経済研究所を設立、原子力発電の調査を始めた。


湯川英樹の門下生である森一久は、当時科学雑誌原子力分野を担当。昭和28年(1953)6月、日本で研究者に先んじて原子力平和利用をすべきという建議書のようなものを出したのを新聞で知って、経済界の人がもうけのために原子力を利用するのはケシカランと後藤に抗議に行った、まだ28歳でしたので・・・。新聞で見たことのある後藤さんが、「原子力が日本の復興の役に立つのなら、と思って。けち臭いことは考えていない」と。「外で文句言ってないで中に入って来い」と言われ、ミイラ取りがミイラになって、その後、後藤の下で経済界と研究者のパイプ役を務める。


1950年代の初め、経済の発展とともに、日本は深刻な電力不足に。節電や計画停電が相次ぎ、供給が復興に追いつかず、一刻も早く安定した電力が求められた。電力会社は火力発電で必死に追いつこうとしたが、主力は水力。夏は水量が落ち、大型ダムを作る新規の場所も限られ、新しいエネルギー源として原子力への期待が高まった。


世界で原子力発電の先陣を切っていたのはソ連だった。1951年にはオブニンスク原子力発電を建設。平和利用攻勢に危機感を感じていたアメリカは1953年12月、アイゼンハワーが「平和のための原子力」演説を行い、国際的な原子力機関を設立して原子力の平和利用を提案、ソビエトに対抗。
日本で即座に反応したのが、政治家であった。1954年2月、超党派の議員が原子力予算案を作成。3ヵ月後、2億6000万円の予算案が国会に提出される。

通産省堀純夫:「予算案提出は政治家(中曽根康弘、斉藤憲三ら)が研究者の論議に見切りをつけたことに。学術会議での議論は小田原評定で時間だけ食って見切りをつけた。再開に慎重、議論が必要という意見があり、しびれを切らした。」



再開を望んでいた阪大教授伏見康治でさえも、「政治主導の予算案にショックだった」と。「思い上がった考えと言われればそうだが、学術会議の研究者たちは、アメリカのマンハッタン計画だって原子物理学者のイニシアチブで始ったから、学者が始めなければ始まらないと思っていた。自分たちが全段階に責任を負ってやるんだと思っていた。ところが、1954年4月、突然、予算案成立、政治主導でスタートした。」
急に多額の資金の使い道を決めるように任された通産省の官僚たちは、専門知識もなく、慌ててにわか勉強を始めた。「突如として天からお金が降ってきた」と通産省堀純夫は言う。「取組む意欲は全くなく、見通しも持っていなかった。2億3500万、どうやって使ったらいい。29年初年度は6000万使った」。予算はこのあと一気に急増、1958年には30倍の77億になっていく。



この年、1954年(S29)3月、ビキニ環礁の水爆実験の死の灰をかぶり半年後久保山愛吉さんが白血病放射線障害で亡くなり、太平洋のマグロからも放射能が検出され日本中がパニックに。全国的に反核運動が起こる。平和利用を唱えながら、密かに核実験を行っていたアメリカに反感が高まる。
この時、経済界から一人の人物が現れる。阪大教授の伏見康治は言う、「講演会を聞いたら、私は職業野球をやった、民間テレビもやった。次は原子力だと言っている人がいた」。元日本原子力発電役員も、「”中身はわからんが、やる必要がある”と国会で答弁している、それだったんですね。」


後に原子力行政に大きな影響を及ぼす、正力松太郎である。正力は、戦前、内務官僚、その後、讀賣新聞の経営者となり、戦後日本テレビの社長をしていた。正力が恐れたのは反米・反核の感情が共産主義の高まりにつながる事であった。対抗策として正力松太郎がとったのは、原子力平和利用の一大キャンペーンであった。助言したのは秘書の柴田秀利。「原子力は両刃の剣。原子力反対を潰すには原子力の平和利用を大々的に歌い上げ希望を与える他はない。」、「日本には『毒は毒をもって制する』ということわざがある」。
柴田がアメリカの諜報機関に送った極秘文書が残っている。そこには柴田と正力による具体的提案が書かれている:「効果的な方法は著名な原子力科学者を来日させること」「正力松太郎は彼の新聞とテレビを通して最大限のプロパガンダを行う用意がある」。



1954年、「原子力平和利用使節団」が来日、ジョン・ホプキンスの講演会が行われた。「原子力は無限の未来を約束する」と講演で語る彼の本当の肩書きは、アメリカを代表する原子炉メーカーのゼネラル・ダイナミックス社社長である。1955年11月、米情報局との共催で「原子力博覧会」が東京をはじめ全国11箇所で1年がかりで巡回、およそ300万人が訪れた被爆地広島では、6月1日、100万人目となり、平和資料館では被爆者の遺品を片付けて、原子炉の模型が展示された。讀賣新聞原子力発電の将来性を伝える記事を連載。電力不足を解消するだけでなく、水力、火力より低いコストで発電できるため電気料金が格段に安くなると紹介している。


通産省の島村武久や村田浩もキャンペーンが世論を変えるのに目を見張った。「平和博が相当なPRになったのは事実。時あたかも久保山事件(ビキニ事件)が起こっているわけで、杉並の主婦から出た反原子力反核運動もずい分広がり始めている頃に、昭和31年に、あれだけ華々しく原子力がスタート出来たというのは、国会議員の行動だけでなく、それ以前に耕したものが相当生きていると思う。役所サイドにいて、あまり大して評価も関心も讀賣ほど持たなかったけれど実質的にはかなり役に立っている気がした。」


広島・長崎・ビキニと三度の被爆を経験している日本人がいかなる心理で受け入れたのか・・・
広島で原水爆禁止運動を立ち上げた森瀧市郎は、平和記念館が平和博に使われるのに初めは抗議していたが、原水禁大会では、「破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を人類の幸福と繁栄の方向に向かわせることこそが私たちの生きる唯一の願いであります」と、平和利用支持を宣言した。
次女の春子さんが語る:「アメリカ文化センターが広島にも設置され、ソフトな形で”新しい文化”をもたらすとされた頃でもあり・・・悲惨な目に遭ったからこそ、人類の平和と繁栄という平和利用の夢にかけたかった・・・ということで、全国で順次開かれ、一大ブームのようにたくさんの方々が行ったわけで、まぁ、洗脳されたという言い方がいいかもしれませんが・・・」。


茅に反対していた広島大学の三村もキャンペーン後は沈黙。「積極的に進めるべき」が主流になった。政財界の動きに研究者が合流、原子力導入の動きが実現にむけて加速した。
正力は原子力担当大臣になり、5年以内に実用的原発を始めると宣言。
原子力委員会をつくり、委員長に就任、研究者の代表として湯川英樹を招く。
正力と湯川は真正面から対立。湯川の「急がず基礎研究から」に対して、正力は「外国から開発済みのものを輸入して早期実現すべき」。
湯川はすぐ辞めると森を電話で呼び出す。森の話、「湯川さんは『基礎研究なんかしなくていい』という正力の声明を読んで頭に来ていた。なにも1日で辞めることはないでしょうと間に入った」。1年後、湯川は辞任。



通産省官僚の島村武久は、「湯川さんは、性に合わなかった。心配事が多くて嫌になった」と。
湯川の門下生の一人藤本陽一(元東大原子核研究所教授)は、「湯川辞任をきっかけに国の原子力から距離を置く研究者が増えた。湯川先生のアイディアを生かそうという気持ちはない。ただ政府の作ったものに署名が欲しいだけで憤慨して辞めた。政府に専門家の意見を聞く気はなかった」。
湯川英樹の言葉:「情勢の急変が今後も予想されるが故に、発電炉に関してはあわててはいけない。我が国には『急がば回れ』という言葉がある。原子力にはこの言葉がぴったりとあてはまる」
時間のかかる基礎研究より早期実現、その建前のもとに科学的観点が軽視される態勢が作られ、原子炉導入が進められることに。(前編後半つづく)

戦後史のもっとも胸の痛むシーンと重なります。
正力松太郎アメリカの諜報機関と手を携えて、日本に本当の民主主義が根付くことより、アメリカの都合の良い日本作りに精を出している様子が浮かび上がってきます。そして、不幸なことに、まんまと成功するのですね。
森瀧春子さんが言われた「洗脳」という言葉がこれほど当てはまることはないでしょう。
その一大キャンペーンに使われた予算は、そのまま、日本の原発安全神話維持・流布のために使われ続け、私たち国民は税金としてずっと奪われ続け、我と我が身・脳髄と精神をグダグダにしてきた歴史なんですね。こんなことでいいの?と本当に日本人みんなで考えなければ・・・ 
讀賣新聞は変った? 政府は変った? 研究者は変った? 国民は目覚めた? 原水禁運動は変った?(つづきは10月1日に)