柴田トヨさんの詩と脱原発講演会

昨日のNHKの番組から、100歳の柴田トヨさんの詩が、やさしく慰めたり励ましたりして、被災者の心を捉えています。

今日は東日本大震災から7ヶ月。10日の新聞に被害状況が。
死者 15,822人  行方不明 3,926人 (7日現在、警察庁まとめ)
避難 73,249人 (9月22日現在、復興対策本部まとめ)
さて、安斎育郎さんの講演会、昨日の体育の日、サンプラ8階の大会議室は満員でした。24団体の実行委員会主催、箕面市教育委員会後援でした。(ちなみに箕面市は「非核三原則の完全実施とあらゆる国の核兵器廃絶」を訴えて1985年(S60)に「非核平和都市宣言」をしています。)
2時スタートなので、1時半ごろ家を出ました。信号のあたりでどうもサンプラへ向かっている人たちが多いような気がしてきます。エレベーター前に講演の案内が出ていました。そこで、ばったり、昔、英語のお相手をしていた女の子のお母さんに会いました。彼女とは数年前、高齢者の集いで箕面の民話の紙芝居を福祉会がお願いした時、その語り手として登場され、十数ぶりの再会でした。
エレベーターは8階の会場に向かう人で一杯。23日の映画会「ミツバチの羽音と地球の回転」のチラシを渡しました。8階に着くとまっ先に2枚のキルトの作品が目に飛び込みました。その作品の前で彼女から、韓国人と結婚して韓国で暮らしている娘さんが出産で帰国していること、韓国人の彼との最初の出会いは英語だったと聞かされました。500円のチケット代を払って講演資料を受け取る頃には、別れ別れに。
会場の中で、ヨーガの一番若手の方と会いましたが、私は空いている席を求めて前の方へ。
安斎育郎さんの講演、1時間半では語りつくせないほどの内容。レジメを1時間ほど経ったころ見て、これはあと30分では・・・と聞いているほうが心配なほどでした。私は、原発問題を平和とからめての副題から、講演の内容に期待していました。
そして、レジメのプロフィールから始まる安斎さんの自分史そのものが、日本の戦後と原発の歴史そのものなのに感心してしまいました。つい最近1940年(昭和15年)生まれの辰年のお二人と会っておしゃべりしたところでしたので、安斎さんも同い年の方というのも不思議な気がして・・・。
プロフィールのスタートが東京大学工学部原子力工学科卒となっていて、1962年、原子力学者の養成機関として先生40人、それより遥かに少ない学生数(15?)で出発した1期生だということでした。それから5年後、原子力の未来に絶望して、推進反対を唱えて1972年、32歳で行った日本学術会議原発問題シンポジウムの基調演説「原子力の問題点」のなかで「六項目の点検基準」を発表。以後、批判者を排除するあらゆる差別やアカハラ(アカデミック・ハラスメント)によるイジメを経験されたようです。1969年東大医学部助手を17年と書いてありますので、この時期のことでしょう。
1986年、立命館大学経済学部教授、88年、国際関係学部教授、1995年より、国際平和ミュージアム館長、現在、名誉館長。2011年、4月、安斎科学・平和事務所を開設。とあり、経歴が講演内容に重なります。

レジメのトップ「戦争がなければ平和でしょうか?」とあり、かつては「平和とは戦争がないこと」で済んでいたが、今の「平和学」では、「直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力の3つの暴力がない状態」をいう。そして、アイルランドの女性映画監督が訪ねて来たお話から始まりました。イギリスが開発した数字で計る「平和度」というのがあり、24項目のデータを入れると数字でその国の平和度が分ります。1位はアイスランド、2位ノルウェイ、3位デンマーク、4位ニュージーランド、5位日本、6位がアイルランドだそうです。(アメリカは97位。ロシアは131位。ビリは140位のイラク
そこで、女性監督から「日本は平和ですか?」と問われて、先生は答えます。アメリカのベトナム戦争時、日本の基地がなければあの戦争はできなかったと言われていたように、戦争と無縁できたわけではなかった。最近のイラク戦争(2003年3月20〜5月1日終結宣言〜09年6月14日)でイラク市民は15万人死んでいるが、その間日本の自殺者は20万人。とても平和とは言えない。

は、それら暴力の最たるもの核兵器はなぜなくすべきなのか?」
(1)広島・長崎に原爆が落とされたのはなぜなのか? 昭和14年(1939年)、ドイツのポーランド侵攻からヨーロッパ戦争が始まり、昭和16年の12月8日日本の真珠湾攻撃から戦争は世界規模の第2次大戦に。そして、早くも昭和17年4月18日には四日市と神戸に最初の空襲、これが国内爆撃の最初、と詳しく戦況が紹介されました。そしてあの昭和20年3月10日の東京大空襲一晩で12万人死亡。広島の原爆では落としたその年に死亡したのが14万人でした。
昭和20年(1945年)2月のヤルタ(ソ連)会談での米ソの密約(日本は関東軍が強いので、ヒットラーが負けたら3ヶ月以内にソ連も参戦してほしいという)を結ぶ。アメリカは7月16日にプルトニウム型の原爆実験を行い、翌日、ポツダム会談(ベルリン郊外)。そこで、スターリンアメリカのトルーマンに日本の天皇ヒロヒトから「ソ連に仲介の労をとってほしい、戦争を辞めたい」という親書が届いていることを伝える。アメリカはソ連の手柄で戦争が終わるのは避けたいと原爆投下を焦る。8月6日午前8時15分、広島へ原爆投下。
8月8日午後11時、約束通りヒットラー死後3ヶ月以内にソ連参戦、日本に宣戦布告。9日、満州へ。日ソ中立条約破棄。アメリカは同日明方3時ごろ、小倉へ、失敗、長崎、原爆投下。アメリカの報道管制により、広島・長崎の悲惨な状況は世界に知らされなかった。米ソの力の駆け引きで原爆は落とされた。
(2)ビキニ水爆〜15メガトン、ー 第2次大戦は3メガ(100万)トン
(3)現在の核兵器保有国は戦勝国の米、英、仏、露、中(国連の拒否権を持つ常任理事国)に68年イスラエル、74年インド、98年パキスタン、06年北朝鮮の9カ国。北朝鮮核兵器は日本を攻撃するため?ではない。日本海側にある原発テポドンでも打ち込めば核爆弾を落としたと同じこと。日本が相手ではなく(北朝鮮を敵視する)アメリカを振り向かせたいため。
(4)核兵器をなくすには? 世界中の核物質を全部集めても4畳半に収まる程度。やめようと思えば簡単。政治的意思の問題、やめるか、やめないかの問題。

3 原発事故を防げず、申し訳ない!
(1)事故当事者3原則「隠すな、ウソつくな、故意に過小評価するな」ー 70年代から今も変らず
(2)放射線の影響は確定的影響と確率的影響(=ガン当たりくじ型影響)
(3,4,5)略

最後に、恒常的に低レベルの放射線が存在するという条件を利用して実験場にして世界に売り込めばいいという構想を披露されました。福島の放射能汚染地域を二重の城壁で囲って城壁の間には瓦礫を埋め太陽光パネルで蓋をする。回りには風力発電の風車を建てて自然エネルギー生産地帯にし、動植物の放射能の影響を調べる国立の研究施設を作るというものです。

事前に渡された質問用紙を回収、30分の回答の時間もありましたが、中には福島の方からの質問もありました。食品の安全性についての質問がかなりあったようで、先生の具体的な回答もありましたが、先日のクローズアップ現代でのお話と同じように一言で言えば、”事実を見すえて、理性的に怖がること”。

余談になります?が、日本人の好きな血液型の話は、世界ではヒットラーと同じ(民族優生学)と取られるので、海外で決して血液型の話はしてはいけないと学生達にも言ってあるとのこと。ヒットラーは親衛隊(SS)をA型の血液型の人間で揃えたそうです。黄色人種は白色人種より劣る、黄色人種が世にはびこることは良くないという「黄禍論」などと一緒で民族差別の道具とされると、文化的暴力(直接的暴力・構造的暴力を助長・正当化する文化のあり方)のところで話されました。

早くから原発反対を唱えてきた専門家という点では小出裕章さんと重なります。防ぐことが出来ずに申し訳ないという責任感も共通しています。ユニークだったのは福島の状況を逆手に取っての構想です。実現できるかはそれこそ政治が判断することですが、負の遺産としての有効利用の可能性アリ!と少し明るくなれました。(このユニークさ、さすがB型!と思うところがイケナイんですね〜)

福島原発事故

福島原発事故

会場で求めた本、生まれて初めて、著者からサインを書いていただきました。第5章の「生き来し方を振り返って」がプロフィールと重なり、付録として1972年、32歳の「日本学術会議原発問題シンポジウムでの基調演説」が掲載されています。 
午前中の10時過ぎ、グループで送ってもらっている香住の魚を取りに来られた夫の山仲間のTさんの奥さんと少し話しました。昨日の講演会、講演終了後帰る時に会場で会いました。昨日は豊中から4人で車で来られたとか。Tさんが言われるには、テレビで見たり他の講演会で聞いたときは怖い学者さんと思っていたのに、昨日はユーモアたっぷりチョッとリラックスして分りやすいお話でしたねと。たしかに、先日のテレビでは本当に「学者さん!」って感じでしたが、笑いの絶えない(ブラックユーモアもタップリ)お話でした。東京下町出身で早口だと仰っていましたが、1時間40分喋りっぱなし、小休憩挟んでまた30分、その後サイン会でしたから大変だったことでしょう。
100歳の柴田トヨさん、100歳の日野原重明氏、71歳の安斎育郎氏、年長さんの活躍には本当に励まされます。