秋薔薇咲いて、TPPって?

朝晩冷え込むようになってアーチの四季咲き薔薇の蕾が次々と上の方で咲き出しています。
ここのところ内田樹氏のブログの更新が相次いでいます。
面白いテーマに内容豊か、内田氏らしい考察が示されていて、納得したり考えさせられたりしています。そのなかで、TPPを考えるとき、これこそ基本という「国民経済」についての記事を取り上げてみます。
内田氏が引用されているのは「明治生まれの大蔵官僚で、池田勇人のブレーンとして、所得倍増計画と高度成長の政策的基礎づけをした」下村治という方の『日本は悪くない、悪いのはアメリカだ』(文春文庫)です。詳しくはコチラで:http://blog.tatsuru.com/2011/10/20_1207.php

TPPについて原理的に考えようと思って読み出した本であるが、自由貿易についての下村の舌鋒の鋭さに驚いた。
現在の日本のエコノミストの中で、ここまでクリアカットに自由貿易主義を批判する人が何人いるだろうか。
下村の基本は経済は「国民経済」を基礎とする、ということである。「経世済民」の術なのだから、それが本義であるのは当たり前のことだ。
本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」
(95頁)
この指摘のラディカルさに、私は驚かされた。


当節はやりの「グローバル人材」とか「メガコンペティション」とかいうことを喃々と論じている人たちはおそらく「この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない」と言い切ることができまい。
「競争で勝ち残らなければひどい目に遭う」という命題を彼らは国際競争についてだけでなく、実は国民間の「生き残り競争」にも適用しているからである。
「競争で勝ち残れない日本人はひどい目に遭ってもしかたがない」と彼らは思っている。
あれほど「競争力をつけろ」とがみがみ言い聞かせて来たのに、自己努力が足りなかった連中にはそれにふさわしい罰(列島からでられず、貧苦に苦しむという罰)が下るのは「しかたがない」と思っている。
そういう人たちは別に何のやましさもなく、日本列島を出て、愉快に暮らせる土地に移って行くだろう。
下村は逆に「その手」を封じて、経済について考える。
「まずオレが食って行くためにどうするか」ではなく、「まず一億二千万が食ってゆくためにどうするか」を考える。
話の順番が違うのである。

経済という言葉は「経世済民」から来ていると言われていますが、「国民経済」というのは「全国民の口を糊することである=一億二千万が食ってゆくこと」であり、政治家の仕事は「食わせてゆくこと」であるという明解な論です。その意味から、
アメリカは日本が農産物について高い関税障壁を設けて保護していることを市場閉鎖的であると難じているが、それは文句を言うのが筋違いである」となります。なぜなら、「日本は、明治維新から、日本列島に住む日本人に十分な就業機会を与えながら、かつ、付加価値生産性の高い産業を育成し、それで十分に高い所得を実現する、という目標を必死になって追求してきた。ところが、雇用機会を増やすことと付加価値生産性の高い産業を育成することは必ずしも簡単ではないばかりか、同時に実現することはできないものである。」

というのは、多くの人に就業機会を与えるためには、それ相応の人手を産業に吸収させなければならない。しかし、付加価値を高めるには、なるべく人手を減らして生産性を高める必要がある。
このため、必然的に、生産高の割りには人手を多く必要とする生産性の低い部門と、徹底的に合理化して相対的に人手をあまり必要としない生産性の高い部門の両極端の産業が成立するようになったのである。その結果として、今日の日本人の生活があるということができる。
したがって、今でも日本は、自動車のように生産性がきわめて高い産業がある一方で、コメに代表されるような、生産性のきわめて低い品目をむりやり維持している、という状況になっているのだ。」(75頁)
コメ生産について、これほど腑に落ちる説明を私はかつて読んだことがない。

「生産性が低いが大量の雇用を引き受ける産業(というより、大量の雇用を引き受けるがゆえに生産性の低い産業)は、国民経済的には必要不可欠のものである。良いも悪いもない」ということは、米作りのような人手の掛かる産業は人手がかかるゆえに雇用を生むのだから大切だし、また人手を極力省いて付加価値生産性の高い産業(自動車)を育成することが、「国民経済の課題」であると言っています。

ところが、「自由貿易論者たちは、話を簡単にしようとする。付加価値生産性の高い産業を育成すれば、「自動的に」全国民の就業機会は担保されるのだから、問題は「勝てる産業の育成だけだ」という話にまとめこもうとする。この単純化を下村は語調荒く難じている。
それぞれの国には生きるために維持すべき最低の条件がある。これを無視した自由貿易は百害あって一利なしといってよい。(・・・)自由貿易主義の決定的な間違いは、国民経済の視点を欠いていることだ。」(96頁)
下村は自由貿易で国内産業が壊滅したチリとインドと清朝中国の例を挙げている(存命していたら、2008年のメキシコの食料危機も例に挙げただろう)。
そして、ハロッドの次のような言葉を引いている。
完全雇用自由貿易にもまして第一の優先目標である。完全雇用を達成するために輸入制限の強化が必要であれば、不幸なことではあるが、それを受容れなければなるまい。」(100頁)
続けて下村はこう書く。
自由貿易とはそういうものである。決して、神聖にして犯すべからざる至上の価値ではない。強大国が弱小国を支配するための格好な手段でもあることをもっとハッキリと認識すべきだ。」(100頁)
改めて言うまでもないが、これは机上の空論をもてあそぶ学者の言葉ではない。日本の高度成長と所得倍増という、戦後もっとも成功した経済政策を現場で起案した人の言葉である。


TPP推進論者たちは、農業もまた自由貿易に耐えられるだけ生産性を高めなければならないと主張している。だから、アメリカでやっているようなビジネスライクな粗放農業を提案している。だが、それによって完全雇用の機会が遠のくことについては、何も言わない。
彼らは「自由貿易完全雇用に優先する(なぜならば、自由貿易の結果、国際競争に勝利すれば、雇用環境は好転するはずだからである)」というロジックにしがみついている。
彼らが見落としているのは、自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも「義理がない」多国籍産業の手に帰すだろうということである。「国民を食わせる」というような責務を負わず、「生産性の低い産業の分まで稼ぐ」というハンディを背負っていない多国籍企業が国際競争では勝つに決まっている。
国民経済は国際競争に勝つために制度設計されているものではない。
それは国民に雇用を担保することを第一義に制度設計されているのである。
そのことを下村治に改めて教えてもらった。
それを多として、ここにその主張の一部を録すのである。    

アメリカでやっているようなビジネスライクな粗放農業」については何年か前に見たNHKの番組を思い出します。
機械化した大農場で単一品目を最小限の人数で経営し、肥料や消毒は無人のヘリコプターでやってしまう。出来た大量の穀物を何処へ売ろうかと相談していました。そして、アメリカの西側、太平洋を越えた人口1億以上の優良な消費者がいる日本に目がつけけられます。粗放農業は大量消費者がいないと持たない大量生産です。TPPというのは、農業に関していえば、アメリカの大量生産で作られた農産物の市場として日本が何年も前から当てにされ(狙われて)いるという問題なのでしょう。その間、無策だった政治は責められても、農家の方達が先行きやってゆけなくなったり、美味しいお米がお金持ちの海外向けにのみ生産され、貧乏人は安い輸入米をということになるのも困るな〜と思っています。昔、三ちゃん農業といわれ農機具メーカーの小型機械の売込み競争となりローン返済のための農業となったという話も聞きました。外圧で改革というのではなく、現場の方達の意見を取り上げた改革が必要なのでしょう。
極力人手を省いた生産性の高い産業と日本の気候風土地勢から必然的に生まれる農業形態とを共に両立させながら日本人を路頭に迷わせないことを第一義とした「経世済民」を本気で政治家がやろうとしているのか・・・・それとも、自由競争に勝てば全ては上手くゆくと、一部の人たちの利益のみを追求して、競争に負けた企業や産業や人は自己責任と切り捨ててゆくのか。そのことによって起こる社会不安や救済措置で、結局回りまわって日本全体、皆で沈没なんですが・・・、そんな時は、日本を捨てて逃げていけると思っているのか・・・。そんな人たちに日本の今と将来を決めて欲しくないな〜とも思います。
とにかく、アメリカ第一ではなくて、日本第一、国民生活第一で考えてくれる政府でなければ・・・。
◎今日の「日本がアブナイ!」さんの意見は同感です。アンテナから入って読んでみて!
 私も野田政権は、ある面、自民党より危ない!と思うようになってきました。