箕面のモミジと内田樹氏の「教育について」


昨日の朝のコーヒータイムで父が「午後から滝の上へ連れて行ってくれるか」と夫に。「滝の上のトンネルを出たと所で降ろしてくれたら帰りは歩いて帰るから」と言うので夫がビックリ。そこで「じゃ〜私も行くから」ということで行ってきました。まだまだ紅葉には早すぎました。
ドライブウエーを走っていて渋滞でもないのに前の2,3台が徐行運転。どうしてか?と思うと、猿が路上で動かないのです。のそっと動いてくれてやっと走り出しました。崖の方を見ると柔らかな毛をしたサル達が沢山いました。
祭日の翌日でしたがまずまずの人出。今年から施行された猿のえさやり禁止の録音されたアナウンスがしきりに流されます。「悪質なえさやり行為には罰金一万円が科されます」という声に、前を歩いていた青年が「”悪質”なえさやりって…」と復唱していました。餌さやり行為がなぜ”悪質”になるのかチョッと説明が必要だなと住民としては思いました。
さて、お目当ての紅葉ですが、残念ながら滝へ降りて行く「中の千本」と言われる辺りもまだまだでした。滝の周辺も下りの滝道も太陽が真上に来た時くらいしか陽が差し込まない谷あいのモミジは皆まだ色づいていません。朝陽や西日が当たる山の上が少し色づいています。今月末から12月初めが見頃かもしれません。
下りの途中で70代くらいの男性から「滝までどのくらいですか?」と声を掛けられました。「そうですね〜」「駅からどのくらい・・・」と仰るので「もう真ん中越してあと少しですよ」「15分くらい?」「そんなもんです。頑張って下さい」。
駅から滝まで2.8キロで、野口英世の像あたりが真ん中ですが、後半は上りがキツイから長く感じるかもしれません。きっと95歳の父と歩いていたので杖をついた人でも上ってるんだからと声を掛けられたのだと思います。
父は今年初めての滝。去年から1年の間に心不全で2回入院していますので、下りといえどもチョッときつかった様で、途中、山本珈琲館で一服して、観光ホテルの前で夫にケイタイで連絡、駅までお迎えを頼みました。



昨日の内田樹先生のブログには教育問題で長〜い記事が。内田先生の怒りと心配が伝わってきます。
タイトルは「平松さんの支援集会で話したこと」になっていますが、内容は橋下氏の「維新の会」の教育条例問題です。
見出しを並べてみます。「教育現場にドラスティックな急激な変化は馴染まない」、「政治とマーケットが関与してはならないカテゴリー」、「学力とは何か」、「スィーブ・ジョブズ嘉納治五郎に見る『教育の意味』」、「子供を教育産業の消費者にした結果は」、「学校教育は、次世代の公民を育てるためにある」。その中から引用です。

前略


「子供を教育産業の消費者にした結果は」から:

教育を商取引の枠組みでとらえる人々が陥るもう一つの誤謬は、学校とは子供たちを選別し、格付けする場だと思うことです。そういう人がたくさんいます。子供たちは格付けされねばならないと考えている。一斉テストで一番からビリまで順番に点数をつけて、差別化する。そして、上位者には報償を与え、下位の者には罰を与える。そうすると、学力が上がると思っている。人間というのは報酬を約束すれば喜び、罰を与えれば縮み上がる、そう思っている。「人参と鞭」です。
でも、これは人間についてのあまりに浅薄な理解としか言いようがありません。そんなことをしても、子供たちの「学び」は決して起動しません。そもそも、彼らが求めているような「学力」さえ上がらない。


「学校教育は、次世代の公民を育てるためにある」から:


あの教育基本条例を起草した人は骨の髄まで市場原理と競争原理に毒されている。教育は商品である。子供や保護者はクライアントである。最も少ない代価で最も上質な商品を提供する教育機関が淘汰に耐える。生き延びた教育機関が良い教育機関で、ダメな教育機関はマーケットから退場しなければならない。そういう考えです。通常の営利企業なら確かにそうでしょう。でも、学校は営利企業じゃない。学校は金儲けのために作られた組織じゃない。そのことがわかっていない。


この維新の会の基本条例にも、「学び」とか「成熟」とか「公共の福利」といった言葉は一度も出てきません。一万五千字もある条文の中に一度も出てこない。「市民」も「公共性」も出てこない。出てくるのは「競争」とか「人材」とか「グローバル」とかいう言葉ばかりです。前文の終わりのところには、こう書いてあります。

大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取り残されるのは自明である。」


教育の目的は競争に勝つことだと書いてあります。競争に勝てる人材を育成することだ、と書いてあります。彼らは「激化する国際競争」にしか興味がないんです。だから、教育現場でもさらに子供同士の競争を激化させ、英語がしゃべれて、コンピュータが使えて、一日20時間働いても倒れないような体力があって、弱いもの能力のないものを叩き落とすことにやましさを感じないような人間を作り出したいと本気で思っている。そういう人間を企業が欲しがっているというのはほんとうでしょう。できるだけ安い労賃で、できるだけ高い収益をもたらすような「グローバル人材」が欲しいというのは間違いなくマーケットの本音です。
だから、ここにあるのは基本的に「恫喝」です。能力の高いものだけが生き延び、能力のないものは罰を受ける。国際社会は現にそういうルールで競争をしている。だから、国内でも同じルールでやるぞ、と言っている。能力の高い子供には報償を、能力の低い子供には罰を。能力の高い学校には報償を、能力の低い学校には罰を。そうやって「人参と鞭」で脅せば、人間は必死になると思っている。人参で釣り、鞭で脅せば、学校の教育能力が上がり、子供たちの学力がぐいぐい高まるとたぶん本気で信じている。そんなわけないじゃないですか。それはロバを殴ってしつけるときのやり方です。子供はロバじゃない。子供は人間です。

詳しくはコチラ「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php)で。
関連記事:「句の無限遠点」さんの25日の記事「犠牲者を生み出す橋下政治!」(http://d.hatena.ne.jp/haigujin/)で橋下「知事」の高校「改革」で、約3000人の中学3年生の進路がなくなったという記事が。大阪府民必読です。