サンルームとお茶

先週、Hさんから電話。サンルームが出来たのでヨガのお友達を誘って午後のお茶にどうぞということでした。ヨガ仲間は今日は珍しく欠席者が多く、出席された方も都合が悪いということで、先生とお食事した後、Mさんお一人ということに。私とSさんは一度自宅へ戻ってから出直して1時に。

私は相変わらず作りためたコサージュの中から1つと多面体の3種類をお土産に。Hさんはグリーンの濃淡のコサージュをすぐ胸元に付けて喜んでくださいました。
討ち入りの今日が結婚記念日というSさんはお赤飯を。
Hさんがヨガ仲間だったころ、よく皆でランチを御馳走していただいて、そのままお茶の時間もということが度々ありました。その後、Hさんはシャンソンの歌の会の方に重点を置いてお稽古に励まれて、その後、お宅訪問はありませんでした。

2年ほど前、桜の季節に我が家へお呼びしたことがあり、その時、我が家のサンルームを見ていただいたので、今年の1月頃だったかにサンルームについて問い合わせがあり、いろんなタイプを展示しているショールームをお教えしました。それ以来のお電話です。

アルミサッシの出来あいは条件が合わず、諦めていたところ設計をしてくれる工務店さんがあってガレージ上の玄関横という条件を上手にクリアしてレンガ張りに南と天井をガラス張りにしたサンルームが出来上がったというわけです。煉瓦張りの両サイドの壁面にまたぴったりの雰囲気の灯りが2つ。ステンドグラスのシェードが素敵です。妹さんのお友達の作品だとか。

奥の丸いテーブルでお茶を戴きましたが、何の話からか、Hさんが戦後、大陸から引き上げてくるときのお話を聞くことに。小学校1年生のことだったそうです。親とはぐれて御近所の方が港で待つ親のところまで連れて行ってくれたとか。佐世保の港に戦車を運ぶ船に乗って玄界灘を、それこそ船倉の端から端まで転がるように揺られ着の身着のままで日本に着いたら、裸にされ着ていたものは煮沸消毒、体中DDTを撒かれて粉まみれ。毛布かタオルにくるまって、あくる日、縮んだ衣類の山から自分のを探して、そして見た満開の桜の花!日本って桜がこんなに咲いてきれいなんだ〜と思った。引き上げを体験したから、そのあと、どんなに苛められても、何とも思わなかった。食べるものがなくて苦労して引き上げてきたあの時のことを思えば何でも耐えられた。

初めて聞くお話でした。裕福な暮らし向きで、出される食器も納まっている食器棚だって外国の豪華な贅沢品。優雅に暮らしておられると思っていましたが、あればあったで、なくても平気という腹の据わり具合が伺えます。私とMさんは19年生まれですから、戦後の物のない時代はよく覚えていますが、戦争中のことは知らない世代。8つ年下のSさんに至っては戦後の脱脂粉乳DDT、肝油、教室の石炭ストーブの話が通じない世代です。そうそう、3人でこんな話をしていたのをお茶の支度をしながら聞いていたHさんが戦争中の話をしてくださったのでした。

そして、原発の話になりました。署名用紙を持ってくるべきでした。いまだに脱原発に向かうことが出来ず、原発を輸出しようという日本。本当におかしいよね〜という話になりました。思いがけず、戦争中の話から原発の話になったころ、透析から御主人が戻ってこられて、私たちも失礼することに。看護婦長さんで定年を迎えるまで働いておられたHさんの知らなかった一面を聞かせてもらい特別の時間を過ごさせていただきました。