光は辺境から・・・「自由民権 東北で始まる」(その3)

東京の五日市、駅から車で20分ほど入った山間の地、ここで昭和43年、自由民権の歴史を塗り替える発見があった。

菅原文太さんは、民衆思想史研究所代表の江井秀雄さんと40年ほど前に膨大な資料が見つかった現場へ向かった。
江戸時代から続く深沢家という豪農の地主の倉庫。明治10年代、この地で自由民権の勉強会が盛んに開かれていた。
蔵に入った江井さん:「ネズミの糞だらけ虫だらけ埃だらけ。80年間手つかず。風通しの良い2階に上がると風呂敷包みがぶら下がっていて、そこから一杯出てきた。今まで私たちの想像することのなかった資料が出てきた。」
東京経済大学色川大吉さんの指導の下、当時大学院生の江井さんたちが参加していた。7000点もの資料の中から今まで知られていなかった新しい憲法草案が発見された。
その草案は後に「五日市憲法」(明治14年と名付けられた。
分析の結果、全部で204条。高知の植木枝盛の草案に匹敵するほどの徹底した人権保障の規定を設けていることが分かった。
江井:「特徴は、45条:日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可カラス」で今日の憲法に匹敵する条項です。」
菅原:「ほかの憲法との違いはありますか?」
江井:「違っています。五日市憲法の大きな特徴は”国民の権利”にあり、国民の権利や立法権などを見ると、全体の50%を超えるほどで、これはすごいことですね。」


この草案に書かれた署名「陸陽仙台 千葉卓三郎」を手掛かりに追跡する。
千葉卓三郎 の生誕地は菅原文太氏の隣町、宮城県栗原市。千葉卓三郎の家は仙台藩の下級武士だった。ペリーの来航の前年に生まれ、11歳で仙台へ出て勉学に励む。しかし、戊辰戦争が勃発。16歳の若さで志願して戦場へ赴く。
江井:「16歳の年、彰義隊二本松少年隊と同年、あの殺戮にものすごいショックを受けているはず。敗軍の兵の経験、挫折感、学ぶことの虚しさ、逆にいろんなものを学びたいという焦りもあったでしょう」
千葉卓三郎は、19歳の時、ギリシャ正教と出会う。栗橋市の「金成ハリスト正教会」。
当時、西洋の思想や新しい技術を学びたいという若者の多くはキリスト教に関心を寄せた。卓三郎も平等や博愛といった教えに共鳴していく。洗礼を受けて自ら布教活動に従事した。そして明治17年、事件が起こる。卓三郎はキリスト教に帰依するあまり、自宅にあった伊勢神宮の玉串と先祖の位牌を投げ捨てた。これが不敬罪となり卓三郎は100日間刑務所に入った。
江井:「そこでの経験が、やはり卓三郎には相当厳しかった・・・徹底した人権無視とギリシャ正教への弾圧を経験。」
菅原:「それが、五日市憲法の自由平等思想につながったいったのでしょうね〜」
五日市憲法第56条:「オヨソ日本国民ハ何ノ宗教タルヲ論セス、之ヲ信仰スルハ各人ノ自由ニ任ス」



故郷を離れ東京へ出てきた卓三郎は、28歳の時、五日市へ流れ着く。この地で共に民権思想を学習する仲間たちと出会う。左上の写真は現在一枚だけ残っている仲間と一緒に写ったもの。卓三郎は挫折を経験、理想を追い求めた末、自由民権の思想に引きつけられた。当時、深沢家などの豪農が中心となった「五日市学芸講談会」という学習結社が組織された。100人を超える会員は貧しい農民も含めた様々な階層が含まれて、対等の立場で参加していた。
月に3回の会合で彼らが議論を重ねていた討論のテーマが「討論題集」に記録されている。例えば、「女帝ヲ立ツルノ可否」「出版ヲ全ク自由ニスルノ可否」「増租ノ利害」「女戸主ニ政権ヲ与ウルノ利害」など。それぞれのテーマについて賛成か反対か、その理由を含めて全員が意見を述べる形で討論が進められた。(テーブルの上に並んでいるのが憲法草案⇒)

小さな「討論題集」を手にして菅原:「意識が高いですね〜、我々よりよほど高いヮ〜」「140年前とは思えないリアリティが感じられる」。
江井:「ある意味、五日市憲法草案というのは、五日市の人々の意見の集約されたものが生きていたと考えていいと思います。」
仲間たちと活発に話し合いながら卓三郎らがまとめあげた憲法草案。しかし、31歳の若さで病死してしまう。
五日市憲法は、その後長い間、だれの目にもふれることはなかった。


[津波の被害が大きかった三陸海岸。明治の初め、戊辰戦争の敗者となった三陸地方のこの地で、復興をめざし憲法の構想を抱いていた人物がいた。彼も千葉卓三郎と同じ人々から忘れ去られていた思想家でした。
小田為綱 出身は岩手県久慈市。3・11の大震災後の現在、廃校を挟んで仮設住宅があり、廃校の教室が郷土資料館となっていている。ひ孫にあたる小田清綱さんと久慈市歴史民俗資料室を訪ねた。二人は、長い間小田家に眠っていて、30年ほど前世に知られるようになった憲法草案を見る。
憲法草稿評林」 これは、明治13年に政府が作成した憲法草案に対して、小田が赤字で批評や意見を加えた文書です。

天皇についての条項では、為綱は、天皇が陸海軍を統率するいわゆる「統帥権は議会両院の議決による」としている。
小田:「統帥権を軍隊に渡すなということです」 
菅原:「当時、山縣有朋統帥権天皇にと言って、伊藤博文は反対した。その後もいろいろ議論があったが、統帥権天皇に在して昭和まで至った」
明治憲法では統帥権は内閣から独立して天皇に直属していた。昭和に入り、軍はこの統帥権をタテに大陸進出への道を進んだ。

小田為綱の思想はどのような風土で生まれたのか?
江戸時代、南部藩領だったこの地では、冷害が多く飢饉が絶えなかった。さらに戊辰戦争の敗北で農民たちは貧窮にあえいでいた。下級役人の子で学業に抜きんでていた為綱は江戸の学校で学ぶ機会を得た。そして故郷に戻って考え続けたのが人々の暮らしを豊かにするための方策だった。
明治22年、為綱が著した開拓案「陸羽開拓書」について、ひ孫の小田清綱さんは:「構想、理念。実態を照らし合わせて正しく計算された構想だということが分かる。」
為綱は生涯に何度も三陸の開拓書を政府に提出した。「原野を開拓し牧場と鉱山を拓き港を作り道路を通す」。そして三陸に大学を作る構想「三陸両羽大学校概則」を発表した。注目されるのは教師の半分を西洋人とし、優秀な生徒はヨーロッパへ留学させる、国会議員を出す。これらの構想は為綱自身の体験から発想されたものだった。
ひ孫の小田さん:「自分の生涯をみたとき、やっぱり学ぶことの大切さを身に染みてわかっていたんだろう。
30代になってからもう一度時の総理大臣にも働きかけるが、その時も取り上げられない。」
菅原:「東北はいつも見捨てられていくのかな〜」
為綱の計画の中には戦後の国土開発の中で実現したものが少なくない。
彼が道路を作ろうとした所は、現在鉄道になっている。しかし、津波の被害で列車は止まったまま。

菅原文太さん最後の旅は、陸前高田市津波跡を訪ねます。
そして、最後に、東北の自由民権思想の地下水脈が、新憲法の中に泉となって湧き出る。
今の私たちの憲法主権在民の現憲法が、「外国から与えられた」なんていうのはとんでもないというお話です。

旅の最後は陸前高田市へ。そこには復興へと動き出す人々が。
地元の若者たちは、自分たちの力で作り直そうとしている。港は地盤沈下で水位が上がって船はつけられない。壊れた堤防もそのまま。復旧はまだ遠い。漁師たちは津波で家族を失った痛手から立ち直り漁業を復活させる準備を少しずつ始めている。
菅原:「ほとんど全滅…」、熊谷政之さん:「なぁんも無い」、「まぁ、大丈夫かな?」、「う〜ん、みんな頑張っていて、今さら頑張れもないんですが、徐々にやっていくしかないので」。

今、陸前高田では若い地域の人が主役となった計画が立ち上がっている。
リーダーの一人、河野道洋。醤油店の跡継ぎ。店も工場も津波で流された。
130年前、東北の人々の声は中央政府に受け入れられなかった。今度こそ彼らの望む復興への道は開かれるのか?
菅原:「あの復興という文字を間にして、今度は波や地震でもなく、国と対峙しなければならない。勝てるかな?」 
38歳の河野さんが話し出します(彼はNHKの長時間討論番組「危機の時代のリーダーを生み出せ!」にも出演し、その発言が注目されました=蛙):「東北は津波がなくても、実は、壊滅していました。」「あ〜そうか…」「そうです。東北の中間山地で行われている農業は、私もやっていましたが、ほとんどそこを担っているのは70代、80代です。それが、合理化できるかどうかという・・・。その人たちの技術の継承も欠落していて、もうすぐその技術が失われる。日本は自分で食糧も作れない、エネルギー自給もできない。子どもは年寄りを尊敬しない。多分、津波が無くても、遅かれ早かれ日本という国に希望を見出すことは難しくなっていた。
そうであれば、逆に、何もないところから希望を発信すること、具体的に形にしていくこと、制度も変えていくことで、新しい日本を作ることが出来ると思います。東北が、福島も含めて、再生することが日本の希望になるし、国民の希望になると思う。国がそれを放置するわけがないと思う。もし、国が放置するなら、その時はその時で考えます。」「闘うかね?」と聞かれて不敵な笑いで答える河野君。
「千載一遇のチャンスなんだね」と菅原さん。河野君は答えます、「そう思います」。


ここでまた4人での話し合いが始まります。
菅原文太:「津波がなくても東北は壊れてましたよ、と言われてドキッとした。タジタジ。何もないところから新しい日本を造るといって…。 小さい旗印、彼の中で自由民権の旗を掲げたことかも知れないなぁ〜」
三宅民夫:「130年前、東北からこういうアイデァが生まれてきている。その辺、何か・・・」
色川大吉(東京経済大名誉教授・民衆思想史):「今まで余りにも日陰に置かれていた。広範囲に体制が変わった(明治維新)この際に、光を当てようという気持ちになったかと思う。それまでは、天明だの、天保だの、大飢饉がしょっちゅうあって、その後に大きな何万という餓死者が出ていたので、そういうのから立ち直るためには発想を根本的に変えなくてはいけないと考えたのでは。三陸を世界に開くという考えしかなかった。」
樋口陽一東北大学名誉教授・憲法):「世界を見渡してみて新しい時代は周辺から起こる、中心ではなく。ローマ帝国でも、中心ではなく、周辺から起こる。で、明治維新の千載一遇の転換期に対して、例えば、岩手から出てくるというのは決して偶然ではない。京都や江戸の人たちは、今日、明日の政権争奪に忙しいですから。今でいえば永田町の政局にいそがしい。大きなヴィジョンが生まれない、むしろ、周辺から出てくる。」
三宅:「東北ゆかりの人が未来の希望につながるような憲法の構想を出している。」
色川:「千葉卓三郎は、東北のいろんなところを転々として訪ねて、勉強して、ギリシャ正教に入ったりして・・・。だから、ある意味では放浪する若者たちという感じなんですね。おそらく明治時代にはそういう人がいっぱいいたんだろう。藩がつぶされて、賊軍の敵地だった。公に東京で就職できないで食いつぶして、あちこち居候して…。その時驚いたのは、蔵を開けたら二百数十冊、三百近くの本があるわけです。その本の中に、デンマーク憲法、オランダ憲法、勿論フランス憲法アメリ憲法・・・その本がある。えーっ!! 誰がこんな本を読んだのか!と。だって、あの五日市という、田舎の山のドン詰まりですよ!」
樋口:「農村の労働をやりながら、そういう世界に通ずる文献を読みこなして議論していた。驚きですョ」


日本国憲法につながる地下水脈>
三宅:「どういう風にご覧になりますか?」
樋口:「ハイ、改めて、今持っている日本国憲法につながる水脈の源だな〜地下水脈の水源だな〜と。
特に色川先生ご自身が陣頭指揮して発掘した五日市憲法草案は、つまり、何かをしたいという止むに止まれぬ「行動」、それと世界につながっていく「知」、「行動と知」というものが、草深い村落であゝいう風に結びついたという、これこそ地下水脈の水源だろうと改めてそういう思いを強くしますね。
戦後、こういう議論がありますよね:「戦後日本は戦争に負けて日本の歴史に関係のないものを戦勝国に押し付けられた、だから、これをご破算にしてやり直そう」という。 とんでもない、そういうことではないんだということが・・・。
実際、1945年、敗戦後、占領軍が大変注目した民間の憲法研究会の方々が作った案がある。在野の知識人、論客たちの集まりですが、その中で唯一の憲法研究者が鈴木安蔵鈴木安蔵が高知に行った時、そこで、今まで世の中に知られていなかった植木枝盛の資料に出会う。そういう鈴木安蔵が中心になって民間草案を書いた。



鈴木安蔵は、現在の南相馬市の出身。自由民権運動に光を当てた憲法学者です。
昭和11年、高知を訪れた鈴木は埋もれていた植木枝盛憲法草案を再発見する。そして敗戦後、鈴木は憲法研究会のメンバーとして昭和20年(1945年)「憲法草案」を作成。その際、植木枝盛を始めとする自由民権運動の思想を取り入れた。(「統治権は日本国民より発す」)
憲法研究会の草案はGHQ連合国軍最高司令官総司令部)に提出された。これらも参照しながら日本国憲法GHQ案がまとめられた。



戦後民主主義自由民権運動
樋口:「注目すべきは、アメリカの当局は日本の戦前にも民主主義があったんだという認識を持っていたということです。これは、植木枝盛だけでなく五日市、そして数々の自由民権運動の中で模索されていた憲法構想というものが、私は、地下水が表に出る幸せな機会を得たのだという風に理解しています。
色川:「戦後の民主主義の元の所には、自由民権運動があると・・・」
樋口:「ハイ、全く」 色川:「仰る通りだと思いますね」
菅原:「鈴木安蔵さんとか、そういう力もあり、遡れば植木枝盛とか、千葉卓三郎とか、そういう人達が、優れた貴重な憲法を作り上げたわけじゃないですか。今こそ、その憲法をもう一度一つ一つ読んでいけば・・・。日本人は、日本の国はこうしていくんだということが示されているわけだから、そこへ戻るというかなぁ〜。
若者たちが新しい自由民権を考えてほしいですね。」
色川:「そうですね。今度の東北大震災で、僕はずいぶん走り回って、感じたんですが、若者が今の暮らしに一寸おかしいぞ、不自然だぞ、と考えるきっかけをつかんだ。他の人の災害に自分が労苦を分かち合うという考えが出てきて、それが行動に表れている。新しい・・・を拓くんじゃないかという気がする。」
菅原:「光は辺境から・・・ お二人の話を聞いてネ、昔から言われますね、光は辺境から・・・・


自由民権運動が130年前に燃え上がった福島。
毎年、民権家の子孫たちが集まり、「福島自由民権大学」が開かれている。
自由民権の精神を現在にどういかしているのか、地域の人々や研究者の人も参加して議論を重ねている。(この日の集まりには、東北の自由民権家たちを訪ねた菅原さんと、その末裔の大和田さんが参加して発言をしている)
菅原:「「自由民権の水脈が果たしてあの時に途絶えてしまったのか、あるいは今日まで、どこかに細々とでも土の中を這いながらあるんだろうか」
大和田:「俺は原発反対を言い続けてきたんだけど、言葉は自由民権とついていないけども、政府がやることは間違っているから直しなさいというのは、民権運動と同じ(拍手)じゃなかったのかと、実は、文太さんと話しているうちに気付いた」

<なつかしい未来の創造>

陸前高田の復興計画。この場所にあった蔵造りの街並みを甦らせるために、流された古い建物の木材を集めてきた。
(復興の先頭に立つ河野くんが言います:)「これ全部地元の人たちがガレキの中から集めたんですよ! 新しい木材では復元できないんです」

目指すのは、「なつかしい未来の創造」
過去の英知を掘り起し、そこから未来を作っていこうというのです。
東北の人たちは今すこしづつ歩き始めています。       
「自由民権 東北で始まる」(1・15 )おわり


東北の自由民権の水脈は憲法草案に流れ込み、戦後、新憲法となって日の目を見ることになりました。
その東北は今、大災害で復興もままならず、「自由や自由や我汝と死せん」と大書した苅宿仲衛の故郷の家は今放射能の避難区域内です。「自由民権は今や姿を変えて反原発の闘いなんだ」と苅宿仲衛の子孫・大和田さんは気付きます。
自由民権の水脈は枯れたのか? それとも、地下深く流れて半世紀以上たった今また噴き出す出口を求めているのでしょうか。
願わくは、東北だけではなく、ここ大阪・関西でも、首都東京・関東でも、四国でも、中国地方でも、北陸、九州、北海道、沖縄と、あまねく日本中いたる所に湧きいずることを!
温故知新・古きをたずねて新しきを知る。受け継がれる精神を掘り起こし新しい命を注ぎたいものです。
←「五日市憲法草案」の「権理」。主張して当然の”ことわり”で英語では”RIGHT=正しいこと・正義”です。「権理」が「権利」と書かれるようになって、なんだか功利的とか利己的と思われるようになった?