ダニエル・ハーディング「3・11のマーラー」(NHK)

3月10日は東北大震災から一年の記念の番組が沢山ありました。翌日「さよなら原発関西一万人集会」の関電コースを歩くつもりだった私は昼間から3・11関連番組を見たり、録画したりして・・・さあ、一日も終わりという頃、テレビをつけるとNHKで、3・11の当日すみだトリフォニーホール新日本フィルハーモニーを指揮したダニエルハーディングのマーラー交響曲5番をやっていました。10分か15分欠けていたと思ったのですが、内容がとてもユニーク。30分番組ならと新聞で確かめたら1時間近くある番組。途中からでしたが録画して、でも結局、最後まで見ました。

ダニエル・ハーディングは:

 1975年、イギリス生まれ。94年にバーミンガム交響楽団を指揮してプロ・デビュー。さらに96年にはベルリン・フィルとのデビューを飾り、ロンドンのBBCプロムスに史上最年少指揮者として登場。トロントハイム交響楽団とノルショーピング交響楽団の首席指揮者、ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン音楽監督を歴任。現在は、スウェーデン放送交響楽団音楽監督ロンドン交響楽団首席客演指揮者を務めている。
 10/11年シーズンからは新日本フィルハーモニー交響楽団で"Music Partner of NJP"に就任。2012年4月からは軽井沢大賀ホールの芸術監督に就任。またマーラー・チェンバー・オーケストラ(MCO)では1998年から2011年6月まで首席指揮者や音楽監督を歴任した。(新日本フィルのサイトから)

私は奇妙な偶然でこの1996年のベルリンフィル・デビューを目撃しています。
現在ウイーン国立歌劇場音楽総監督のウエルザー・メスト氏は、96年当時チューリヒ歌劇場音楽監督で、そのメスト氏のベルリンフィル・デビューを横須賀の音友Eさんと楽しみにしてウイーン、チューリヒ、ベルリンを巡る旅を計画しました。あのカラヤンサーカスと呼ばれるベルリンのフィルハーモニーホールに着くと、ホールの張り紙でメスト氏急病降板です。3年前、Eさんとの初めての海外旅行で出かけたロンドンの再現でした。あの時はロンドンフィルで盲腸でしたが、ベルリンでは二人で楽屋口で訊ねた楽団員さんから風邪熱で耳が聞こえなくなったと教えていただきました。
こんなことって!?〜〜という情けない思いでホールの下手、前から3番目ほどの席から代役を務めるダニエル・ハーディングの登場を待ちました。演奏も曲目も忘れてしまいましたが、ベルリンフィルデビューを譲られた20歳そこそこのハーディングを見た?ことは忘れることが出来ません。その後、私は3度目を恐れて海外旅行を兼ねた”追っかけ”はやめて来日を待つことに、Eさんは一人旅で3度目の正直を果たしました。ベルリンでの未知との遭遇が、世界が注目する逸材だということは音楽雑誌を読んで知りました。そして、昨年、新聞の文化欄の小さな記事で、3・11に日本にいたこと、6月に再来日し、チャリティーのコンサートをしたことを知りました。(7月3日のブログ)

その3・11の地震直後の演奏会は映像に残されていました。番組は、この日のマーラー交響曲5番の各楽章の音楽に重ねて、ハーディング氏やオーケストラの団員やその日の演奏を聞いた人達のインタビューを交えながら、演奏会を再現をしつつ、マーラーの音楽あるいは音楽そのものの意味を浮き上がらせるといった内容になっています。番組の構成自体が交響曲のようで、袴田さんのナレーションも良かったし、音楽作品をテーマにしてこんな内容! 見逃さなくて良かったと思いました。16年後の立派になった?ハーディングさんとのこんな再会?も嬉しかったです。

番組の中でのハーディングさんの言葉:「この交響曲は人間の永遠のテーマである生と死、そして悲劇、それもとてつもない悲劇で始まります。そこからマーラーは我々を明るく幸せで穏やかな場所へと導きます。最悪な状況をもたらした後で、それを生き抜くようにと励ますのです。あの日の演奏にふさわしい曲とそうでない曲があります。あの日予定されていたのがこの曲であったことは幸運でした。私が状況を判断したり、決定を下すことはできません。演奏すべきでないというのも理解できるし、演奏が出来るのなら力を合わせますと言いました。」
ホール側の責任者はホールの安全が確認できたので演奏会開催を決めます。ホールには問い合わせの電話があり、こんな非常時にという抗議の声もたくさんあったとか。7時15分の開演に向けて4時ごろから最終リハーサル。団員たちは聞きに来る人がたとえ一人でも完璧な演奏をと臨みます。その頃まだ新宿にいたホルン奏者がいました。彼は歩いてホールへ向かいます。走り続けていると息が上がって間に合っても演奏できないと、ボーイスカウト時代のスカウト走りを思い出して歩きと走りを交互に数十分ずつ続けながらひたすらホールを目指します。その日のチケットを手に入れて楽しみにしていた聴衆の一人も演奏を聞くためホールを目指して歩き出します。

ハーディングの言葉は続きます:「あのような時に大切なのは一人でいないということです。仲間がいることの心強さを感じる必要があります。演奏会を開けば同僚、お客様、そして音楽がそばにあり、決して一人にはなりません。私は勇敢だから演奏したのではなくて、むしろその反対でした。お客様がとっても少ないことは聞いていました。予想外だったのは皆さんがバラバラに座っていたことです。座席どおりに座ってとっても行儀がいいですね。思わず『こちらに集まりましょう』と声を掛けたくなりました。でも、隅々に人がいたのである意味会場は満たされていたのです。」

マーラー交響曲第5番< 第1楽章 葬送行進曲 荘厳な足取りで 厳格な葬列のように>
ハーディング:「みんな命をかけて演奏しました。100%音楽の中に入り込んでいました。私自身圧倒されるような体験でした。」 一方楽団員はテレビで見た悪夢のような映像が浮かんで平常心ではいられなかったが、登場した指揮者のハーディングさんが全く普段と変わらない様子だったので落ち着けたと答えています。
事務局のマネジャーも「異様な集中力と緊張感みたいな鳥肌が立つような響きが感じられた。ひょっとしたらこんな状況の中とんでもない演奏をするんじゃないかと思った」
第2楽章 嵐のように激しく この上ない激動をもって
第3楽章 スケルツォ 力強く 速すぎずに> 苦しみを振り払う陽気で牧歌的な楽章・・・
第4楽章 アダージェット> ハーディング:「マーラーが恋人アルマへ求婚するために作った弦楽器とハープのための短い曲で、類を見ないほど美しく心に触れる音楽です。マーラーはアルマにこの曲を贈り、彼女は求婚を受け入れたのです。」
ホールへ向かって歩き出した音楽ファンの住民の一人は、道に迷いながら2時間半ほど歩いて、この頃ホールに到着しています。「最後の一音だけでも聞きたかった」
この楽章まで出番を待っていたハープ奏者は:「待っている間、テレビの映像がフラッシュバックのように・・・今、思い出してはいけないと振り払いながら、客席の人数を数えたりしていた。渾身の力でもう二度とこういうのは出来ないという思いでした。やっていて良かった。二度とできない演奏でした。違う力が・・・」
ビオラ奏者も:「祈るような、魂の中に入っていくような思いで音が出た・・・不思議な気持ち・・・」
仙台出身のフルート奏者は:「生々しい映像を見てしまっていたので、昔遊んだ七里ヶ浜や荒浜の楽しかった思い出をかき集めて拾い上げていた」
聴衆の一人は:「波のような音楽で、こんないい思いをしていて、申し訳ない…と思っていました」
第5楽章 ロンド・フィナーレ> 苦悩が一変して希望に向かう最終楽章の出だしはホルンの首席奏者のラの音のソロで始まります。新宿駅から走ってきた同じホルン奏者は親戚の大事な方たちの無事をそのスタートの一発にかけていました。暖かい音が優しく響き渡るのを聞いて「当てた!」と思い、喜びが加わって希望が見えてきたと話します。3日後、大槌町の親戚の無事が分かりました。
演奏が終わると、「気付いたらロックコンサートみたいに立って拍手をしていました。舞台にいる人とそんなに変わらない人数の全員が立ち上がって拍手をしていました。」
105人の聴衆の盛大な拍手です。
最初にホールへ駆けつけた曽我さんは:「あの日のことは話せなかった。3・11に演奏会に行ったと言えなかった。あの日音楽を聴いたことはどうなんだろう?」
曽我さんの罪悪感が消えたのは、ハーディングが寄せた「音楽は苦しみの大きさを理解するための助けになります」というメッセージを読んでからだった。ハーディングのメッセージを読んで、あの日マーラーの5番を聞いたことで被災した人々の苦しみをより深く理解できるようになるだろうと「自分に言いきかせ、繰り返し読んで納得できた。」
ハーディング:「演奏が終わって2,3分もすれば、再び元の大きな悲しみに引き戻されます。それでも音楽が続いている間はマーラーが暗闇から光が差し込む場所へ導いてくれるのです。我々が素晴らしい演奏をしたかどうかはどうでもよいことなのです。大切なのはお客様も演奏者も音楽を必要としたあの時に音楽を演奏できたことです。そこに価値があったのです。」
翌日の演奏会は中止され、あの日帰宅できなかった楽団員と聴衆はホールで一夜を明かしました。
「3月11日のマーラー / あの日決行された奇跡の演奏会の記録▽新日本フィルとハーディング・魂を込めた70分間」より

ダニエル・ハーディングの「3・11のマーラー」メッセージhttp://classical.eplus2.jp/article/197699189.html