いつも興味深い書籍や番組を紹介してくださっている「eirene's memories」さんのブログで「SIGHT]という雑誌を見つけました。息子に頼んで手に入ったSPRING号、見出しを読んだだけでもこの一年考えたり疑問に思ってきた事と重なります。
「SIGHT 2012 SPRING リベラルに世界を読む 渋谷陽一責任編集
3・11から1年。この国ではなぜ誰も罰せられないのか」
目次を紹介するつもりで一部のタイトルと写真を並べてみます。
「なぜ東海村だけが『脱原発』にふみきれたのか」東海村・村長 村上達也
「既存政党はなぜ『脱原発』を政治的イシューにできないのか」世田谷区長 保坂展人
「東電、政府、保安院、御用学者ーこの国ではなぜ『大権力であれば責任を取らなくてよい』ことになっているのか」京都大学原子炉実験所 助教 小出裕章
「なぜ日本のメディアは『報道の責任』を問われないのか」ジャーナリスト・翻訳家 牧野洋
「東電の『企業としての刑事責任』は、なぜ問われないのか」同志社大学法学部・法学研究科教授 川崎知巳
「連載対談/内田樹(哲学者・神戸女学院大学名誉教授/武道家・凱風館館長)X 高橋源一郎(文芸評論家・作家/明治学院大学教授)
「教育の本質は『非社会的であること』だ」「我々が橋下徹を生み出した」 などなど。
渋谷陽一氏の巻頭言のような文章がありますが、納得、納得、と思いながら読みました。引用してみます:
総力特集 3・11から1年。
この国ではなぜ誰も罰せられないのか
3月11日の震災、そして原発事故以降、ほとんどの日本人は、日本は変わらなければならないと思った。変らなければ、より大きな悲劇が生まれると強く思った人も多かったはずだ。
しかしあれから1年、日本は決して大きく変わったとは言えない。
東電はまっとうな被害者対策を打たないまま、その根拠を示さずに電気料金の17%値上げを表明し、その体質がまったく変わっていなことを露わにした。
野田総理は「冷温停止、原発事故収束」という国民の誰もが信じないメッセージを出し、事故前に原発は安全だと言い続けたことに対する反省がまったくないことが、全国民の知るところになってしまった。
大手の各新聞は、その野田総理の発言を、まるで大本営発表のように揃って一面トップに掲載し、その原発安全神話の片棒をかついで来たことに対する反省のなさを明らかにしてしまった。
どうして変わらないのだろう。これだけ大きな被害を出していながら、だれも責任を取らないし、状況が変わらないのはなぜなのだ。
本誌では、その問題を「なぜ、誰も罰せられないのか」という切り口で検証してみたい。
被害者は存在するが、加害者がその責任を負おうとしないという奇妙な状況、その構造を明らかにしない限り、何も変わらないと考えたのだ。
<略>
・・・・・・・ 3・11をテーマにすると常に問題は日本の戦後史そのものと、われわれ自身の在り方というところに帰着していく。今回の特集もそうである。誰かを罰しようとしても、常に共犯者としての自分に向き合うこととなり、勧善懲悪の気持ちのいいストーリーが描けないのだ。
特集の中で、世田谷区長の保坂展人さんに登場していただいた。衆議院議員時代から一貫して原発問題に取り組み、区長選においても原発を大きなテーマに掲げて闘った政治家である。当選後も地方行政の長として、エネルギー問題・原発問題に対して積極的な政策提言を行っている。まさに、この状況の中で最もアリバイのある発言が許される立場の政治家といえる。しかし、その保坂さんの口から出たのは「むしろ罪が重いのは自分たちかもしれない」という言葉だった。原発の危険性を誰よりも知っていたのは自分たちなのだから、もっと強く訴えるべきだったという苦い想いから出た、とても重い発言だった。
日本が変わるとするなら、こうした優れた言葉をどれだけ多くの人が共有できるかにかかっていると思う。敗北主義でもなく、悲観主義でもなく、積極的に状況を変えるための罪と罰について考えなくてはならない。
この特集で語られている言葉の多くは、重く苦く飲み込みづらいものだ。しかし、だからこそ、そうした言葉は状況を変える力を持つと僕たちは信じている。(渋谷陽一)