先日NHKのEテレで高村薫さんが取り上げられていました。最後の方で対談されていた相手が民俗学者であり東北学を提唱した赤坂憲雄氏でした。また、現在は東日本大震災復興構想会議委員でも。その赤坂憲雄氏が昨日22日の日経夕刊文化欄の「『東北』への誘い」という「入門講座」で岡本太郎を取り上げています。
丁度私も岡本太郎の「太陽の塔」をブログに載せたところでしたので、関心をもって読みました。
「鹿踊(ししおどり)」の写真が掲載してありますが、この写真は岡本太郎本人が写した写真だそうです。記事を紹介してみます。
鎮魂と供養のために 岡本太郎が見た生命力 赤坂 憲雄
岡本太郎が見た東北にはそそられるものがある。半世紀あまりをさかのぼる、高度経済成長もバブルも知らぬ東北である。『おしん』のような、まさに寒い・暗い・貧しい東北のかたわらに転がっていた、もうひとつの東北といってもいい。わたし自身はそれから30数年後、バブルが果てた後に、太郎の見た東北のかけらを探し歩いた。かろうじて、そのいくつかに出会うことができた。
独特の平泉文化論
たとえば、『日本再発見ー芸術風土記』(ちくま学芸文庫『岡本太郎の宇宙』所収)に収められた岩手紀行には、独特の平泉文化論が語られていた。平泉は奇しくも、震災のさなかに世界遺産に登録されたが、太郎はその半世紀も前に先駆的な平泉文化論を手さぐりに示していたのである。それはあきらかに、京都の模倣としての平泉という通説的なイメージにたいして、反旗を翻すものであった。太郎は述べていた。「一口に京都文化の移植というが、その華やかさと高度な技術を全面的にとり入れ、また末世思想の浄土信仰をひきうつしながら、それにしても、ここでは何とたくましく、彼ら独特の執拗な生命力を表現してしまったことだろうか」と。
その深みには、「奇妙にズレた二つの異質の舌ざわり」が隠されている、と太郎は感じた。中尊寺の宝物のなかにあった鹿の角の守り刀の飾り、太郎はそこに京都文化とはまるで肌触りをたがえる、アイヌ的な、縄文的な「エゾ紋様」を見いだした。平泉のなかに、京都/エゾという異文化がせめぎ合う姿を認めたのである。太郎によれば、エゾ文化は狩猟を基底にもつ文化だった。だからこそ、太郎は花巻で見た鹿(しし)踊から、大きなインスピレーションを得たのである。太郎は書いた、「人間が動物を食い、動物が人間を食った時代。あの暗い、太古の血の交歓。食うことも食われることも、生きる祭儀だった」と。それはすでに、「縄文土器論」のなかに示されていた仮説でもあった。鹿踊は「鹿踊に密着した呪術」にかかわる、という。たとえば、昨年刊行になった田附勝さんの写真集『東北』などは、津波になめ尽くされた三陸地方が、鹿猟の盛んにおこなわれてきた土地であるという意外な事実を突きつけてくる。やはり太郎の直観には驚かされる。
津波に耐えた「塔」
その三陸のある漁村で、鹿踊が復興してくる姿に遭遇したのは、震災から2か月ほどが過ぎた5月のことだった。そのムラには、鹿踊の供養塔が津波に流されずに残されてあった。そこには「生きとし生けるものすべての命の供養のために」と刻まれている。東北の人々が狩りの獲物としてきた鹿の供養に留まらず、すべての生きとし生けるもの、鳥獣虫魚や草木にいたるまでの命の供養のために、鹿踊は奉納されてきたのである。
それがそのままに、平泉という都市の創造原理とされた浄土思想へと繋がっていることは、けっして偶然ではあるまい。しかも、そこにはおそらく、縄文以来の、東北人に独特のたくましくも執拗な生命力の表現が見いだされるにちがいない。
太郎は鹿踊を見た。その躍動する牡鹿の群れの中に飛び込んで、シャッターを押した。その場所は、宮澤賢治が設計した花巻温泉の南斜花壇の前であったが、太郎がそれを知ることはなかった。太郎はたぶん、賢治の「鹿踊りのはじまり」を読むこともなかったはずだ。そして、賢治の文学を「ひ弱なもの」としてしりぞけた。残念ながら、2人はすれ違ったのである。賢治の「なめとこ山の熊」や「原体剣舞連」といった作品を仲立ちとしたとき、2人のあいだに生まれたかもしれない交歓のドラマに、思いを寄せることはできる。
それにしても、この震災の2万人近い死者・不明者たちこそが、きっと鹿踊という鎮魂と芸能を必要としていたのではなかったか。(カラー写真は参考写真)