彦根城に咲く椿

家族会、無事、終わって帰ってきました。
95歳と90歳の両親も彦根城のお城にこそは上らなかったものの今年は参加できました。
長浜、彦根の観光については明日写真を整理してみようと思いますが、今日の所は夕刊(日経)に俳句が載っていましたので、一句。

揺らぎ見ゆ百の椿が三百に     高浜虚子

彦根城のお城の近くにそれこそ無数の椿の花をつけた古木がありました。
高浜虚子のこの句には俳人の横澤放川さんという方が解説をつけておられます。それが3月最後のブログにふさわしいような気がして取り急ぎ書いてみます。
「虚子は敗戦の1年前の秋から戦後にかけて信州小諸に3年間疎開していた。この椿の一句は、それから鎌倉に戻って3年半ほど経った昭和26年(1951年)、サンフランシスコ講和条約の年の作品である。
 椿は虚子にとって、明治43年(1910年)以来のどかに住みなした鎌倉を象徴する花だった。」
「小諸にあって虚子はまるで戦争を黙殺し去ったかのように、ひたすら山国の自然に随順した諷詠を残している。」(略)
「本土決戦が唱えられ始めた頃、弟子の中村草田男が虚子を小諸に訪ねたことがある。その折、国の行末を暗澹として語る草田男に虚子はこう応えたという。
『僕は、結局なるようになる、とこう思っている』
 あまたの花をつけた大樹の椿が、鎌倉のあたたかな海軟風にゆらぎゆらぐ。その諷詠の天地の中で、虚子の喜びはとっぷりと百が三百にもふくらんでゆくのである。俳句はその季節への深い信頼の中に息づく壺中(こちゅう)の天にほかならない。
 『地球が破壊すれば人間は無くなる』と、晩年すでに核時代への不安も語っていたひとだ。いまもし虚子が自然への信頼を根底から覆す現代の事象に置かれたら、それを針小事というだろうか。なるようになるというだろうか。現代は虚子の一壺天すら奪わんとしているのではないか。」

虚子の椿の句が、たまたま彦根城で見た無数の椿の花を連想させてくれただけでなく、この方の詠み解きによって、3・11以後の現代に虚子を呼んでその人災の罪深さを考えてみるきっかけにもなりました。このコラム、タイトルは「耳を澄まして/あの歌この句」というのでした。