今年の家族会・その2(近江商人旧家めぐり)

まず、がれき処理の受け入れ問題で、"広域処理は被災地支援にならない"という被災地からの発信です。
徳島県の環境整備課や箕面市の受け入れ出来ない理由をブログでも紹介してきました。
細野大臣が先頭に立っての「ガレキの受け入れ先がないので被災地の復興が進まない」という政府の大宣伝に対して、広域処理が進まないから被災地の復興が進まないのではない、それよりも「岩手・宮城の津波瓦礫は全て集め、山積み処分して津波記念公園に整備を」と提案する被災地の医師の声を「☆句の無限遠点☆」さんが紹介されています。税金の無駄遣いとも書かれています。ぜひ被災地の方の声を聞いてみてください。コチラで:http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20120402/1333349016


彦根城は、姫路城、松本城犬山城と共に国宝四城の一つですが、戦国時代の「伊井の赤備(あかぞなえ)」でも有名ですし、もちろん幕末の開国派大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」でも知られています。「安政の大獄」もありました。
ところで、私はこの井伊家の血筋の方とヒョンなことから六甲に居た頃知り合っています。夫の転職で加賀市から六甲に引っ越した時、会社の都合で大きなお屋敷の離れに住むことになりました。お屋敷の親戚の方が転勤で一時二階に住むことになり、留守を守っている婆やさんが80歳代の高齢を理由に食事の世話を断られて、私に回ってきました。息子たちは2歳と4歳でした。料理が得意でもなく私も断りたかったのですが、家族に出す料理で充分、お座敷の一つに食卓を置いておくので出しておいてくれればよいということでした。
「井伊さんってあの井伊さんですか?」とお尋ねしたら「はい、そうです」ということでした。今から思うと恥ずかしくなるようなものしかお出しできなかったのに・・・と苦い思い出の一つです。小柄で「切れる!」という感じの方でしたが、クリスマスになると食卓に菓子詰めの靴下が二人分置いてあったりして、とても優しい一面も。胃潰瘍になったというのに、食事は特別気を使わないで今まで通りと厳命され、「いいんですか〜」と心配ながらも普通食で週5日を通しました。それでも病気を治してしまわれたり、なかなか意志の強い方でも。歴史上の人物の血を引く方とのほんの僅かな一時期の思い出です。

ところで、彦根城の前に近江八幡で訪ねた旧家と町並みがとても印象深く残っています。まず市立資料館に入りました。この建物は、元々明治19年(1886)八幡警察署として建設され、昭和28年(1953)大幅に改築され、その時の設計をヴォーリズ建築事務所が行っています。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)は、アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。英語教師として来日後、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である」。関西学院大学神戸女学院同志社大学などにも手がけた建物があるはず。

「建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。

近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。」(Wikipediaより)
タクシーで走っているときにも病院が見えたり、ヴォーリズ建築はまた別の機会にゆっくり訪ねたいと思いました。さて、木造洋館を通り抜けるとかつて海外で活躍したという西村太郎右衛門邸跡で生活用具から商家の道具類、民具、農具までが展示してあります。(上の写真)

資料館の真向かいは旧伴家住宅。伴庄右衛門は江戸時代初期から活躍した近江商人というより八幡商人で、屋号は扇屋。立派なお屋敷で、土間には今年の干支の龍を付けた巨大な山車飾り?が迫力満点(写真右端)。畳のお部屋には桐の箪笥が置いてあります。箪笥の中を開けるように案内が書いてあり、開けると商家の妻子の手すさびの小物がズラリ。すべて絹の着物の残り布を工夫した細工袋などの手芸作品。
板の間の廊下には朝鮮通信使の人形が。秀吉死後徳川幕府になってから朝鮮との関係を改善して朝鮮通信使がこの豪商の街・近江八幡市を通り、お寺や街道筋の家々で昼食をとったそうです。きらびやかな異国の衣装を身に着けた華やかな行列を町を挙げて歓迎した名残がうかがえます。

もう一軒の旧西川家住宅へは、「伝統的建造物群保存地区」と呼ばれる昔ながらの家並みが続く道路を少し歩いて。「西川利右衛門は、初代から昭和5年に11代が没するまで、約300年間に亘って活躍。屋号を「大文字屋」と称し、蚊帳(かや)や畳表などを商い財をなし、近江を代表する豪商としての地位を築いた。11代が没した後、分家の西川庄六家の厚意によって市に土地建物共に寄贈。昭和58年1月重要文化財に指定、昭和60年より保存修理が行われ、主屋は宝永3年(1706)年の建築当初の形に復元された。また、3階建ての土蔵は、天和年間(1681〜1683)の建築で、全国的に見ても珍しいものです。」

続いてタクシーで近江八幡神社へ。鳥居があって、橋の上からの眺めが時代劇映画のセットのような感じ。実際、撮影に使われることがあるそうです。神社前には和菓子屋さんの「たねや」さんや洋菓子屋さんもあって、車や人ごみで混雑していました。疲れたので神社までは行かずタクシーに乗り込むことに。
ここは縄文時代の古墳や遺跡が数多く発見されるので、大昔から住みやすい地域だったのでしょう。「天正13年(1585年)秀吉の弟の豊臣秀次によって開かれた街で、八幡山には城が築かれ、その城下町として10年間。その後八幡山城は廃城となるが、近江八幡の町民によってその後も商業都市として発展、江戸時代を通して八幡商人の本拠地を確立した」とあります。京都や奈良の古い街並みとも違った、豊かな商人町の穏やかで伸びやかな街の風情は今も感じることが出来ました。

翌日の31日(土曜日)は朝から吹き降りの大雨。前々日に黒壁ガラス館などを見て街なかを歩いていてよかったです。ホテルから長浜城も見えましたし。
北周りで、琵琶湖対岸の比良山麓のピザ釜レストランでお昼を食べて解散の予定です。昨年の9月に両親と一緒に4人で訪れて以来、私たちは2度目。妹夫婦や従弟家族は父の従弟の息子であるピザ釜の主とは初対面。母がそもそもの関係を説明して、私たちは「またいとこ」ということ!? 正午ごろに林の中のレストランに到着。雨も小止みになって少し明るくなってきました。
外付けの階段を上って二階へ。靴を脱いでお宅訪問みたいな感じで中へ。大きなテーブルが7人、丸いテーブルは4人とセットしてありましたので、分かれて席に。今回はわざわざお姉さんが両親に会いたいと待っていてくださいました。対岸の近江八幡のすぐ近くに能登川という町があり、そこがお二人の実家がある町。父が中学生の頃訪れて一緒に伊吹山に登ったというのが能登川です。母は箕面に来る前、豊中市岡町に居た頃、能登川からお姉さん(といっても当時幼女の)がお母さんと一緒に近くの親戚を訪ねてこられた時のことを覚えていて懐かしそうでした。私が生れたか生れる前の戦争中のことです。
さて、前日から仕込んだピザをご主人が焼いてくださって、どれも本当に美味しい! 途中で晴れてきたので、窓から煙が見える釜へ小学生のMちゃんを誘って見学に。ご主人が4種類目のピザを仕込んでおられました。イタリア製の細くて長い注ぎ口のポットでオリーブオイルをピザに掛けて釜に入れて焼くところを見学させていただきました。奥様のお仕事でもあるガーデンデザインとガーデニングの見本のようなお庭が素敵です。
時間も限られているし、お腹も膨らんできたので5種類目の2枚はお土産に。デザートに用意していただいたシフォンケーキとお茶で締めて2時前に外へ。近江舞子駅で関東組の妹たち4人はJRに、京都から新幹線。従弟は湖岸を北に北陸自動車道小松市へ。私たちは湖岸を南に名神を走って帰途へ。私たち家族の一年一度の大イベントの終了です。
皆で握手を交わして元気でね!また会いましょう! 特に父の優勝カップが三姉妹の夫たちと従弟を結んでくれていますので父には元気でいてくださいと皆からも。来年は私たち夫婦の当番で淡路島の予定。帰りの車の中では気の早い母が淡路島なら明石で渡ってと、もう来年の話です。再会を楽しみにまた元気で1年過ごします。