吉田氏追悼:「ブーニンと吉田秀和」その2

4.1988年、「音楽芸術」8月号、吉田秀和氏の「かいえ・どぅ・くりちっく、ブーニン亡命」より

I 今度のブーニンの「亡命問題」をめぐっての日本のジャーナリズム―新聞雑誌TV-の扱い。あれは、何と呼んだらいいのだろう! 全部とは言わない。いや、私はその全部なんか、とても目を通してもいなければ、見てもいないのだから、そんなことはいえない。それどころか、私は、どこか、私の知らないところに、人間らしい目の行き届いた記事がのっているのではないか、どうかそうあってほしいと心から願ってもいるのである。略


・・・・・それから、間もない、日本での彼のデビュー・コンサートがNHKホールで開かれた。…私は新聞で批評を書くように注文を受けたのと、NHKホールで…4,5分のインタビューに応じるように依頼されたので、出かけていった。プログラムの第一部はショパンのワルツ全曲。思い切ったような、私などにはちょっと馴染めないプロだった。しかし、それは、趣味の問題だ。おもしろいプロだという受け取り方だってできる。その第一部が終わった後、私はNHKのTVのカメラの前で、しゃべることになった。
以前ホロヴィッツの初来日の時もそうだったが、この種の注文を引き受けるときは、私は必ず「きいてみた上でなければ、やれるかどうかわからない。決定的な返事は、そのときにするということでよければやる。その上に、私は何をしゃべるか知らないが、やらせると決まった以上は、そのしゃべりを一言半句削らす、放映してほしい。これは絶対条件で、ここは具合が悪いから削りたいというのでは応じられない、だから、よく考えた上で、もう一度、いってきてほしい」と答えることにしている。この時もそう言ったが、NHKはそれでよろしいという。  略 ・・・


II 「ブーニンが亡命したそうですよ」という電話が、ある日、私のところにかかった時、私は即座に「やっぱり、そうだったのか」と思った。何が「やっぱり」であり「そうだった」のか、今となっては、よくわからない。多分、私は「あの弾き方からいって、彼は今の環境にそのまま納まっていられるような人ではないのだろう」と予感していたのだろう。
 と言っても、私は、ここで、はっきり書いておきたい。私は、私たちがソ連の社会の有様、その中での芸術家のおかれた環境、その生き方について、本当のところ(本文付点)、どこまで知っているのだろうか?と控え目に考え、夢にも過信してはならないと、考えてきた人間である。
 ソ連に関する情報は、何を読んだり見たりしても「ああ、そういうものですか」と受け取るほかない。だって、私自身は「何も知らない」のだから。このことを、私は、まず、誤解の余地のないように、はっきり書いておく。 略

ブーニンの亡命が正しいか、私にはわからない。また、マスコミもそこまで言っていない。ただし、亡命をあんまり好意的にみていないことはだれにもわかる。略

だが、今ブーニンとそのファンの軽挙を戒めているかのような日本のジャーナリズムは、これまで、日本で狂気沙汰に近い熱狂的ブーニン・ブームが起こったことについて、何といったか覚えているのだろうか? そうして、ショパン・コンクールで彼が優勝したとき、マス・メディアが筆をそろえて、ブーニンの「天才ぶり」をはやしたてたのは、つい二年前のことではないか?
ソ連ペレストロイカにケチをつけまいとするあまり、そこから離脱した青年を持ち上げまいとするのは、わからなくないが、しかし、ペレストロイカの運動は一青年ピアニストの行動くらいで変えられるほど根の浅いものではあるまい。逆に、だからと言って一人の青年ピアニストをこんふうに扱っていいものだろうか。これは、実は、彼の問題であるのと同じくらい、この国のジャーナリズムのあり方の問題でもあるのではなかろうか?  略

私は個人的に何の関係もないが、今度の彼の件をめぐる日本のジャーナリズムの扱いをみると、ブーニンが気の毒になる。
私は彼の弾き方に批判的だった。でも、わがままであれ、甘ったれであれ、彼は自分の納得ゆくピアノを弾きたいと一生懸命だったことに疑いはない。ブーニンもこれから先、どう変わるかわからない。だが、とにかく今は生きてゆく上で母国を離れ、西側に(できれば日本に?)出たいと考えただけのことだろう。あんなに感激したのだったら、何はともあれ、ここのところは暖かく迎えることだって、できただろうに。   略

◎9頁にわたる長い記事の中からのダイジェストです。

5.1988年 「音楽芸術」を読んでブーニンファンSさんの吉田氏への手紙

拝啓、吉田秀和さま・・・・・ブーニン亡命に関する今回のマスコミのあり方に、大変疑問を抱いておりました折り、貴方様の「音芸」8月号に載せられました文を読みました、大いに共感!感動!感激すると同時に、私の吉田様への少しばかりの誤解ありました事、説明させて頂きたく、今、ペンを執っております。


・・・・その頃から興味を持って読み始めた音楽雑誌から吉田様の全集やエッセイに触れ、慎み深い日本人の感性を持つ吉田様の文体、御自身の心に問いかける御批評に心ひかれ、ブーニンが来日したら、この方がどう仰られるか、私はとても期待していたのでございます。
そして、ブーニン初来日、・・・その演奏はあの騒ぎ故に(と私は思っております)本人にとってもファンにとっても不本意なものとなりました。今回の”音芸”で吉田様は”こういう風に扱われるブーニンが”気の毒でならない”と仰って下さいましたが、私は、もうこの時から気の毒でなりませんでした。
19歳の若者を”世紀の天才”などと持ち上げる危険性、私にも十分納得できるものでございます。しかし、それでも、こういう状況でデビューする19歳のピアニスト、温かい眼差しで見てやっていただきたいと願ったのです。


ところが、’86.7.13.ブーニンワルツ集の吉田様のコメント、今回の”音芸”ご説明とは、少しニュアンス、私には違って聞こえたのでございます。あの後、朝日新聞”読者の声”投稿欄に、”アホくさいとはひどい””いや青くさいと仰ったのだ”との論争、賑わしていたのを御存知でしたでしょうか。実は私にも”アホくさい”と聞こえてしまったのでございます(ビデオ何回観ましてもそう聞こえるのです)。そして”ホロヴィッツと比べて・・・”と吐き捨てるように感情的に仰って・・・ この方までもが冷静じゃない! 愕然としたことを覚えています。音楽評以前に、ブームへの反発がブーニンに跳ね返っているように思えたのです。
とても大切なものを信頼している人に、一刀両断の下に、切り捨てられたような悲しさ、淋しさ、悔しさ・・・ こうひねくれてしまうと朝日新聞の音楽評でさえも、素直に読めなくて。でも、今回の音芸の記事でこれらすべてが愚かな私の思い過ごしであったことが分かり、とても嬉しく思っております。本当にありがとうございました。


彼の中の、今どきもう西側に見られないような品性の高潔さ、ひたむきさ、純粋さ、(だからこそ、周囲を傷つけることもあるように思いますが ー 若さです!)に惹かれているような気がします。西側に移った彼がどう変わっていくのか、不安も心配もありますが、彼の選んだ道が彼の求める幸せへと続くように祈らずにはいられません。私は、彼に音楽の楽しさ、素晴らしさ、たくさんのものをもらったので、彼に誠実でありたいと思っています。
ファンとはおかしなもので、貴方様の言葉一つにも、こんなにも動いてしまいます。”音芸”の記事で、吉田様の温かいお心に触れ、感激し、感謝の気持ちと密かにお恨み申していたことの告白、お詫び、申し上げたくなって、こんなにもくどくど書いてしまいました。
厳しい批評も、お待ちしています。    略

吉田秀和氏が「気の毒になる」ほど酷かったブーニン亡命への日本のジャーナリズムの扱い。
週刊誌からテレビ、雑誌、新聞と総がかりでした。その中でも見当違いで「時代」を真面(まとも)に論じたのが朝日新聞の1988年6月24日の文化欄に掲載された記事です。私が朝日新聞を止めるキッカケになった記事です。書いた方は矢野暢という京大教授・政治学の先生です。この先生だけでなく、当時ゴルバチョフの掲げる「ペレストロイカ(改革)」「グラスノスチ(情報公開)」を西側では過大に評価して、ソ連は既に民主国家と持ち上げる風潮がありました。多分、朝日はその筆頭だったと思います。
その「改革」に不満があって「国を捨てる」ブーニン、それも「エリート」で「特別扱い」されているはずの、という誤解が「軽薄なブーニンブーム」への反発と相まって、ブーニンの亡命への「気の毒な扱い」になっていました。さて、政治学者の矢野氏の予言を書き記しておきます。上から目線(当時は使わなかった言葉ですが)のブーニン亡命批判と時代の読み違いと権威主義の滑稽さが際立っています:

ブーニンの亡命希望発言は、「ペレストロイカ」政策の一端に、すでに亡命している芸術家の帰国を促す措置がはっきり位置づけられているだけに、時代に逆らう動きでもあった。
▽私としては、ブーニンは日本について過大な幻想を持たない方が良いと判断する。基本的に政治亡命という概念を認めないのが我が国の建前でもある。それよりも、ブーニンが永久にソ連から離れるということは考えられない。ブーニンは仮に一時的にどこかに亡命しても、やがてはモスクワに帰るはずである。時代がまるで変ってしまっているし、ブーニンが抱いた程度の不満は、ソ連の当局の一存ですぐにでも解決できる性質のものである。
騒がないアメリ ソ連の権力者とて、そう無粋ではない。あのスターリンでさえも、死の当日、彼のプレーヤーにはモーツアルトのピアノ協奏曲第23番のレコードがのっていたと報じられている。あのスターリンでさえも、である。もし今の指導層が本当にブーニンのピアノを聴きたいのなら、万策尽くしてブーニンを引き戻そうとすることだろう。要は、ブーニンの実力なのだと思えてならない。
 しかも、もうアメリカ自体が、一亡命ピアニストを抱え込んで、ソ連とのデタントにひびを入れるようなことを避ける空気にある。ショパン・コンクールに優勝したぐらいのピアニストでは大騒ぎしないのも、アメリカの見識であろう。ブーニンは、案外どこにも行けず、モスクワに帰るかもしれない。 

ブーニン初来日の年、1986年4月26日チェルノブイリ原発事故(私も全体主義で隠蔽体質のソ連だから起こった事故で日本では起こらないと他人事でした)◎1985年、ゴルバチョフ、書記長に。1991年、失脚とともにソ連崩壊。Wikipediaより「ミハイル・ゴルバチョフ/外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か5年目で終結させて軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、ロシア国内ではアメリカと並ぶ二強国であったソ連を崩壊させたことから評価が分かれている。」

<「音楽芸術10月号」・吉田秀和氏の「ブーニン 余滴」につづく>