学校便り「”ヒロシマ・フクシマ”に想う」より

金曜日の夜はなんだかソワソワ。官邸前と大阪関電前のデモが気がかりです。
就寝前、「特別な一日」さんで官邸前のデモが7万人!というのを知って、ビックリしました。
さすが、民放でもNHKでも一市民として参加し続けている人たちをフォローしてニュースで取り上げるようになっています。取り上げられたどの人も日常の生活の中にあって脱原発の決意が自然で魅力的です。明らかに変わってきているのですね。
昨日は全国33カ所でデモがあったそうです。全国のデモ情報はコチラ:http://demojhks.seesaa.net/article/281140316.html
大阪の関電前でも続けられています。
大阪関電本社前デモ情報はコチラ:http://twitnonukesosaka.blog.fc2.com/blog-entry-23.html
特別な一日」さんの昨日のブログのタイトルは「半径1メートルの世界から」というメインタイトルのもと、デモに毎週参加するという行動を続けながら考えておられることが書かれています。家に居てニュースでデモの盛り上がりを間接的に知るということからは決して得られない大勢の市民の行動のエネルギーが未来を確信する前向きなエネルギーを生み出しているように思います。詳しくはコチラで:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20120720/1342791900
また、16日の代々木公園での10万人集会に参加された「るりとうわた」さんはコチラ:http://d.hatena.ne.jp/sasameyuki47/20120717/p1

ところで、今日の本題、わが母校であり息子たちの母校でもある小学校は、毎月、父兄と地域住民に向けて学校便りを発行しています。
今月の初め、廻ってきた回覧板で7月号(2日発行)を読みました。校長先生の「『ヒロシマ・フクシマ』に想う」という文章を読んで、こういう校長先生のいる学校では、あんないじめはないんだろうな〜と思いました。
大津のあの中学校は、元ヤンキー先生の義家議員の話では、平成21・22年度文科省指定の「道徳教育実践研究事業」推進校だったとか。調べてみたら確かに<自ら光り輝く生徒を求めて」〜心に響く道徳教育の実践〜>をしていました。それで、余計、いじめを認めたくなかったのでしょうか・・・。
原子力ムラと似ている」という指摘もアチコチで言われています。元スイス大使の村田光平氏の発言にあった「日本の病」がピッタリです。「まず隠れます。次に先延ばしにします。そして、誰も責任を負いません。」子どもたちは大人をよく見ています。そんな子どもが、いじめを遊びと言い張っています。まさに人の命をもてあそんだのです。

さて学校便りの宮崎校長先生はこども達が6月に行った修学旅行のことから書き起こして、次のように書いておられます。(途中から)

 私は、広島を訪れるたびに鮮明に思い出すことがあります。広島に原爆が投下されたのは今から67年も前のことですが、原爆への怒りは戦争を知らない私の心にも刻まれています。


私が大学生の頃、広島出身の親友がいました。彼の父親は、行方の分からなくなった師範学校の恩師の先生を探すために、原爆投下後の焦土となった爆心地近くに入り被爆されました。彼は被曝二世として生まれました。父親の受けた放射能の影響か胸腺が肥大し、出産のときに産声を上げることが出来なかったそうです。また赤緑弱視で、教員養成系の大学で受け入れている大学は限られていて、東北地方の福島大学に進学しました。


私は高校生の時から星に興味を持ち、天文学を学びたくて、同じ大学に進学し、彼と出会いました。大学の4年間親元を離れ、彼と共に福島で青春を過ごしました。卒業してから彼は、広島に戻り、爆心地周辺の小学校に希望で次々に赴任し、地域教材の掘り起しをしていました。当時彼は、爆心地から300m離れた相生橋の西の袂にある本川小学校に勤務していました。


16年前私が6年生の担任をしていた時に、修学旅行で広島を訪れ、平和公園だけでなく、日本で唯一小学校に原爆資料館のある本川小学校や下見の時に彼に案内してもらった爆風で頭の飛んでしまった地蔵様のあるお寺等、子どもたちを引率しながら平和学習をしました。また彼の父親が語り部をされていて被爆体験を聞かせていただきました。父親はよい後継者が出来たと喜んでおられました。


翌年、次の6年生が修学旅行で広島を訪れた時に、語り部である彼の父親が、息子の同級生である私の学校ということで、翌年の修学旅行の被爆体験のお話の中で息子の死を初めて語られました。若年性のガンで進行が速く、発症から4か月だったそうです。彼は、本川小学校で無くなる1か月まで車いすで教鞭をとっていたそうです。享年40歳でした。1年前には元気で、久しぶりの再会に固い握手を交わし、胸を熱くしたばかりでした。やはり父親が被曝された放射能の影響があるのでは…とのことでした。


 彼が亡くなってから今年で15年になります。修学旅行で広島を訪れるたびに、親友のことを思い起こします。私にとって「ヒロシマ」の原爆投下は、昔の話ではないのです。

  <中略>


 私が4年間学生時代を過ごした思い出深い第二の故郷ともいえる福島市は、放射線量が非常に高いホットスポットが点在し、県外・他地域へ移住する方々がたくさんおられ、学校においては運動場の土を入れ替えたりしていますが、子どもたちは屋外での運動や活動を制限されています。メディアでは「ヒロシマナガサキ・フクシマ」という表記がされ、日本は世界で唯一の被爆国でありながら、またしても被曝をすることになったと報道される事態となっています。
 原子力の持つエネルギーは、人類が作り出した英知の粋を集めたものであるべきですが、私は、友を、そして第二の故郷を奪われてしまいました。


フクシマがキッカケで日本の様々な問題が露わになってきています。
沖縄の問題、いじめの問題、どれも日本が先送りしてきた大きな問題.

その付けが回ってそれが一番弱い部分で悲鳴をあげています。
声を出さざるを得ない状況、立ち上がらざるを得ない状況になってきています。
ここで日本人が立ち上がらなければ、声をあげなければ…正しい判断をしなければ・・・という場面を迎えていると思います。
いよいよ右だの左だのと言ってる場合じゃなくなっていますね。