森光子さん逝く・大正が消える

フィギュアスケートのグランプリシリーズ第5戦、フランス杯で17日、21歳の無良(むら)崇人が男子を合計230.68点で制した。フリー、合計でともに自己ベストを更新、グランプリ4戦目で初優勝」(日経朝刊より)。女子だけでなく、男子も次々と新しい人材が出てきてフィギュアスケート、暫く日本勢の優勢が続きそうです。
先週はゴルフ男子でも石原遼くん2年ぶりの涙の優勝があったり、フォローしきれないほどの話題がつづいています。オリンピックから続いて日本人のスポーツでの活躍は嬉しいですが、福島や原発東日本大震災の復興と肝心の問題が捨て置かれているのでは心から喜びきれません。その上、政治の世界はここ一か月で大事な日本の針路が決まりかねないとなると心穏やかな年末とはいかない日が続きそうです。
ところで先週、森光子さんが亡くなられていたことが分りました。
日曜日、一人で、未だ喉が痛んで声もかすれるので大事を取って、池田のお茶会も水中歩行もお休みにしました。それで、昼下がり、NHKのテレビをつけたら、黒柳徹子さんと米倉斉加年さんがゲストで桜井洋子アナウンサーが司会の追悼番組をやっていました。少しだけのつもりで見始めたのですが、結局2時間の番組をほとんど全部見ることに。
森光子さんは、菊田一夫さんの「がしんたれ」で舞台に出て、翌年の41歳、「放浪記」で舞台女優として大成功した関西出身の女優さんで、「放浪記」の舞台を2017回も上演するという偉業を成し遂げた大女優さんですが、新劇出身の大女優や映画界の大女優と違って、漫才やテレビ界出身の、米倉さん言うところの「いくら勲章とっても”軽やかな”大女優さん」でした。特に関西の我々にとってはお笑い出身という意味もありましたので「親しみのある」と言ってもいいかもしれません。
そして、我が家ではもう一つ、母の一つ違いという意味で「特別」でもありました。大正9年生まれの森光子さんは大正10年生まれの母の一つ上です。ですから、テレビを通して森光子さんのお元気な姿を見るのは母もとっても励みにしていました。それが、放浪記の2000回記念以後、暫くテレビで姿が見えなくなって、お味噌のCMも若い頃の森さんになって、ヨガでの話題では、どこかの高級老人施設に入っておられる、なんていうのもつい最近ありました。
90歳近くまで現役で素晴らしいという評価もありますが、やはり衰えは隠せず、あそこまでやらなくてもという見かたもあります。潔くけじめをつける方もありますが、舞台そのものが人生という生き方もあります。そういう方にとっては舞台を自ら降りるということは難しいことでしょうし、人それぞれです。黒柳さんが長い番組の最後に感想を求められて、「個人的なことなんですが」と断って「私もトーク番組を持っていて、あと何回まで、その時は90になるんですけど、と思っていましたが、森さんを見ていて回数にこだわる事は止めて一日一日を大切に生きることの方が大事なんだと思いました」と仰っていました。

私は、見終わって、大正の女性の生き方というか、両親の世代の人たちのことを思いました。
森光子さんは京都の花街で生まれ、三味線が好きな芸妓さんと遊びに来た学生さんとの間に出来た子どもで、父親を知らず母一人に育てられ、20歳のころその母親が亡くなってからは東京に出て、歌手に。丁度戦争と重なり、慰問団に歌手として加わり、北は樺太から南の島まで、大東亜共栄圏の戦地を慰問して回ったそうです。
「戦争はしてはいけません。軍人さんが歌う軍歌ほど悲しいものはありません。平和だからこそ・・・。戦争はしてはいけません」と話しておられました。
戦後、その無理がたたって肺浸潤(肺結核)になり、京都の山口さんというお医者さん夫妻に助けられています。仕事のなかった頃はお茶の家元の千宗室さんの母親である千嘉代子さんが「家元夫人秘書」という名刺を渡して森さんを支援しています。人との巡り合いにも恵まれましたが、2度の結婚を経て、家族には恵まれなかった。でも、舞台が森さんの家であり、スタッフが家族でもあったようです。
赤木春江さんは、戦争中、慰問団のトラックの上で出会って以来の「心友」だったそうです。赤木さん自身は昨年明治座の舞台で女優を辞める宣言をされ引退なさっています。戦争を慰問という形で体験したお二人の関係ははかり知ることが出来ない「心友」関係だったようです。

今年、大正生まれは、元年生まれで101歳、15年生まれで86歳になります。この人たちの青春時代は、戦争に次ぐ戦争、日清・日露に大東亜戦争です。産めよ増やせよの時代で、領土が拡張・膨張していく時代です。子どもの頃、母が持っていた世界地図を見ると、中国大陸から南洋諸島まで赤く塗られていて、母が昔はここも、ここも日本だったと教えてくれてビックリしたものです。物心ついたのが戦後のはずの私が、「♪すぎの〜は、い〜ず〜こ」とか、「♪勝ってくるぞと勇ましく〜誓って故郷(くに)を出たからは〜」の軍歌や、軍歌というには切ない「♪ここはお国の何百里〜、離れて遠き満州の〜、赤い夕陽に照らされて〜」を知っているのは、母が口ずさんでいたからです。戦前の流行歌は軍歌だったのでしょう。
ところで、「ここはお国の〜」の歌には思い出があります。中学校の謝恩会の席で、当時、お寺の次男坊のI君がこの長い歌を最後まで延々歌ったのです。私は、I君とM君、今は東京在住のSさんと3年生の時生徒会で仲良くなって、別々の高校に進んでも一学期に一度会うことにして情報交換会のようなことをしていました。その集まりで、このI君が語ってくれた「スパルタカス」の映画の話は、自由を求めて立ち上がる奴隷たちの戦いが迫力ある実況放送みたいで心躍らせて聞いたのを今でも覚えています。当時から彼の関心は同年の者のレベルをはるかに超えていて、選挙があると徹夜でラジオにかじりついて開票速報を聞いていたというような中学生でした。
で、その謝恩会は、3年前に出来た新設中学だったので、講堂(体育館)がまだなくて大きなテントの中だったと思いますが、I君がこの歌を唄い出して一種異様な雰囲気になりました。私たちはなんで今頃軍歌歌うの?とサッパリわからなかったのですが、親世代は騒ぎながらも何となく歓迎していたような・・・先生は「アホなやっちゃ・・・」と言いつつ、どうだったんでしょう? 噂では滋賀県のお寺の住職さんになったと聞いていますが、あれ(大学受験の頃)以来会ったことがありません。会ったら「どうして歌ったの?」と聞いてみたいです。
ついでにこの「戦友」という歌をウィキペディアで調べてみました。

「 戦友」 作詞:真下飛泉 作曲:三善和気
本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った一連の極めて長い「戦績」という唱歌の中の「戦友」という一篇であった。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲とで長く歌い継がれた。日本軍歌一の名軍歌とも言われ、広く愛唱されている。昭和に入り歌詞にある軍紀を無視する箇所が不適当と該当箇所が差し替えられ、さらに太平洋戦争中は歌唱禁止にされたが、「雪の進軍」と同じく将兵に広く歌い継がれた。

長い曲ですが歌詞がなかなか良いのでついでにコピーしてみます。若い方でメロディを知らない方はコチラに入って「戦友」で:http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

1.
ここはお国を何百里(なんびゃくり)
離れて遠き満洲(まんしゅう)の
赤い夕日に照らされて
友は野末(のずえ)の石の下

2.
思えばかなし昨日(きのう)まで
真先(まっさき)かけて突進し
敵を散々(さんざん)懲(こ)らしたる
勇士はここに眠れるか

3.
ああ戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に
隣りに居(お)ったこの友の
俄(にわ)かにはたと倒れしを
我はおもわず駈け寄って

4.
軍律きびしい中なれど
これが見捨てて置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起し
仮繃帯(かりほうたい)も弾丸(たま)の中

5.
折から起る突貫(とっかん)に
友はようよう顔あげて
「お国の為だかまわずに
後(おく)れてくれな」と目に涙

6.
あとに心は残れども
残しちゃならぬこの体(からだ)
「それじゃ行くよ」と別れたが
永(なが)の別れとなったのか

7.
戦(たたかい)すんで日が暮れて
さがしにもどる心では
どうぞ生きて居てくれよ
ものなと言えと願(ねご)うたに

8.
空(むな)しく冷えて魂(たましい)は
故郷(くに)へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いて居るのも情(なさけ)なや

9.
思えば去年船出して
お国が見えずなった時
玄海灘(げんかいなだ)で手を握り
名を名乗ったが始めにて

10.
それより後(のち)は一本の
煙草(たばこ)も二人わけてのみ
ついた手紙も見せ合(お)うて
身の上ばなしくりかえし

11.
肩を抱いては口ぐせに
どうせ命(いのち)はないものよ
死んだら骨(こつ)を頼むぞと
言いかわしたる二人仲(ふたりなか)

12.
思いもよらず我一人
不思議に命ながらえて
赤い夕日の満洲
友の塚穴(つかあな)掘ろうとは

13.
くまなく晴れた月今宵
心しみじみ筆とって
友の最期(さいご)をこまごまと
親御(おやご)へ送るこの手紙

14.
筆の運びはつたないが
行燈(あんど)のかげで親達の
読まるる心おもいやり
思わずおとす一雫(ひとしずく)

さて、森光子さんの追悼番組がとんでもない方向に来てしまいました。
大正生まれの両親の子どもである私たち世代や戦争の話を直に聞いた世代が消えてしまえば、直近の太平洋戦争でさえ本当に日本史の一コマになってしまうでしょう。
先日、芦原公園から唐池公園に向かう途中で喫茶店に入り、そこのマスターがたまたま小学校の後輩、7つほど若い60代ということが分りました。小学校時代の箕面の話になり、二人が鮮明に覚えていたのは滝道の入り口で傷痍軍人が物乞いをする姿でした。美味しいココアのお礼を言って外に出るときマスターが、「今度は戦争の話は無しにして戦争以外の話をしましょう」と言ったのがなぜか耳元に残りました。
森光子さんは若い世代との交流もお上手でした。「戦争はしたらダメ」という思いも伝わっていたらいいのに…と思っています。
「戦友」の歌詞を最後まで読んでみると、謝恩会で歌ったI君、この歌は軍歌じゃなくて反戦歌だと訴えたかったのかも、と思いました。
当時、題名も知らず母が口ずさむのを聞いて知っていたのは2番くらいまで、私(たち)は、”「軍歌」なんか歌って”でしたが・・・。
戦争関係は全否定していたあの頃の風潮に対して、それではダメだと言いたかったのかも・・・。