ラララの第九「歓喜の歌」

23日の土曜日、去年に続いて「淀川区1千人の第九」に出かけました。8回目の内3回参加したことになります。夫の山の会のメンバー二人が出演されていて、早くからチケットを買っていました。バスで千里中央へ。地下鉄の御堂筋線新大阪駅へ(ここまで地上の高架を走っていますが)。
去年も寒い中、ビルの外で4時の開場を待ちました。今年はカイロを配っていました。去年は一階の後ろの席しか空いてなかったのですが、今年は山のメンバーの方たちが取って下さった前の方の席に移ることになりました。お陰様で迫力のあるステージを楽しめました。合唱団は佐渡裕さんの一万人の第九にも参加されていて、「明日の午後3時55分から毎日放送で放送されるから見て」とIさんの奥さんに教えてもらいました。(本日、放送があります)
今年はグランドピアノが入っていて、エレクトーンと打楽器との伴奏です。ピアノが頑張っていました。
さてお楽しみの第一部は懐かしの昭和歌謡メドレーの副題で、サザエさん一家が登場して、サンタさんが進行役です。オープニングは札幌五輪のテーマソングだった「虹を雪のバラード」、そして、今日の第九でソリストを務める方たちの紹介を兼ねてオペラから、リゴレットの「女心の歌」(テノール)、メゾソプラノカルメンの「ハバネラ」、バリトンの「闘牛士の歌」、そして、ソプラノの椿姫から「乾杯の歌」、そして4声揃って「ベアトリ姉ちゃん」をコミカルに。オペラ歌手の声の魅力が”ドヤッ!!”て感じの構成になっていてなかなかのスタートです。
いよいよ合唱団による昭和歌謡のメドレー、最初の軽快な「青い山脈」の歌詞に私は不覚にも鼻の奥がツンとなりました。西條八十作詞/服部良一作曲とプログラムに書いてあります。歌詞をネットで調べたので貼りつけます:
1. 若く明るい歌声に / 雪崩は消える 花も咲く / 青い山脈 雪割桜 /  空のはて / 今日もわれらの 夢を呼ぶ
2. 古い上衣よ さようなら / さみしい夢よ さようなら /  青い山脈 バラ色雲へ / あこがれの / 旅の乙女に 鳥も啼く
3. 雨に濡れてる 焼けあとの / 名も無い花も ふり仰ぐ /  青い山脈 かがやく嶺の /  なつかしさ /  見れば涙が またにじむ
昭和は本当に過去になった、と変な感傷に捕らわれました。後で考えたら歳を取った証拠ですね。平成も24年、23日はそういえば天皇誕生日でした。昭和だ、大正だ、平成だ、明治だと言って時代を感じるのも日本人ならではです。
さて、ブルーシャトー、お祭りマンボ、男はつらいよ、年下の男の子、と曲は進み、団員総出演で御神輿が登場したり、寸劇が入ったり、ダンスが加わったりと賑やかな舞台です。
つづいて児童合唱団が加わってアニソン(アニメソング)シリーズです。ひょっこりひょうたん島鉄腕アトム月光仮面は誰でしょう、怪獣のバラード(?)。月光仮面は白いマント(昔の子どもは風呂敷でした)をナビかせて三輪車に乗って登場でした。
最後は「坂の上の雲」(NHKドラマ)のテーマソング「Stand Alone」(小山薫堂作詞/久石譲作曲)です。そういえばこの曲が流れていたのですね。そして、「川の流れのように」と和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」を会場一緒になって。これで一部が終了。大変な盛り上がりでした。
そして今日のメインの第2部、いよいよベートーヴェン交響曲第九番の第4楽章「歓喜の歌」の1千人の歌の歌唱指導。プログラムに楽譜と歌詞が書いたものが入っていて、ドイツ語の歌詞にはカタカナが振ってあります。ドイツ語が難しければラララでいいからと指揮者の清原先生が。指導と乗せ方が大変上手な先生です。私は今回はラララで行くことに決めました。伴奏と起立のキッカケを練習して天井を見上げて、高めの声を出す練習をしばらくして休憩に入りました。
本番、正装に着替えたソリストがシズシズと登場。ピアニストや各楽器の方も黒い衣装、団員は助っ人の若い人たちも加わって舞台の上は100人以上になっています。
長いオーケストラ部分を端折って、合唱部分のみの第九。年末、シラーの「すべての人は兄弟となる」と歌い上げるのも年中行事になって久しいです。去年はこの会場に福島から避難してこられた方たちも参加しているという紹介がありましたが、今年は東日本大震災の被災者への言葉を最後の締めくくりの挨拶で総合司会の方が述べられました。
ラララで唱和したメインが終わると、花束が贈られて、最後のステージ。全員三角帽子を被ってクリスマスソングのメドレーです。子どもたちもステージに、ハンドベルの演奏もあったりとクリスマスらしい盛り上がり。会場一体となって、ミラーボールが回って光がステージ上を巡って、客席も総立ちの華やかなしめくくりでした。
帰り、場所を取って下さっていた方たちと一緒に途中のビルの中で食事をすることに。
Kさんが3・11当時の福島原発事故で爆発の映像は流されず我々は知らなかったという話を始められたので、暫く3・11の話に。
あの日、東京の娘さんの所に行っていて、孫を連れてNHKを見学していたIさんが、外に出て初めて地震のことを知り、電車はやめてバスに乗って歩いて帰ったという話を。「東京の息子さんも大変だったでしょう?」と言われ、私たちは、実は息子は直前のクライストチャーチ地震の取材で東京を離れてニュージーランドにいたという話をしないわけに行かなくなりました。帰ってから福島の取材を申し出たら会社に止められたと話していましたので、今も日本のマスコミはマトモに報道していないし、すでに放射能被害が出ていても知らされていないという話を。IさんもK氏も、そうだろうね〜、そうよね〜。
「故郷を離れざるを得ない人たちの苦労はどんなだろうね〜原発は止めて早く別のエネルギーを開発するなり、そういう方向を政治家が示してくれないと」と技術屋のK氏が言い、「そうよね〜」と皆も。こういう思いをどうしたら政治に反映できるのでしょうか・・・楽しい第九のあとの苦い思いです。

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