昨日のETV特集「”原発のリスク”を問い直す〜米・原子力規制元トップ 福島への旅〜(4/6)」、つづきです。
ヤツコ氏は、浪江町の仮役場や老人施設、仮設住宅の方たちを訪ねて、避難している人たちから切実な思いを聞きます。
浪江町では住民とともに役場も移転を余儀なくされていた。福島県二本松市―臨時の役場に日本中そして世界の人々からのメッセージが届いていた。中にはアメリカから届いているメッセージもあり、ヤツコさんも目をとめる(→)
2年前の3月、浪江町の人々は原発情報が皆目得られない中、突然の避難を強いられた。
町長の馬場有(たもつ)さんは苦渋の決断だったという。
「私ども現在、仮役場は原発から50キロ離れたここ(継ぎ足した先の赤い印を指しながら)」
「3月11日の事故以来、12日の朝にテレビで官邸の方から20キロ圏内屋内退避して下さいというのを見て初めて知って、で、テレビを見ながら色々探っていましたら、ここでは危ないというので30キロの私どもの役場の津島支所に移転いたしました。ここに避難したのが3月12日の午後7時」。
ヤツコ氏「それは政府の指示があったのですか?」馬場町長「東電からも政府からも県からも何も言って来ず、私どもの災害対策本部で決めました。」
重大な原発事故の際には、原子力災害対策本部が設置され政府が責任を持って対応に当ることになっている。その前線基地になるのが福島第一原発5kmにあるオフサイトセンターでした(→)しかし地震による停電と放射能を防ぐ設備が十分でなかったため機能できなくなった。結局政府からの指示や情報の多くは自治体に伝わらず避難は混乱を極める。多くの住民が着の身着のままで避難、先の見えない生活を続けることに。
事故の翌日、20km圏内の避難指示が出たとテレビで知った馬場町長は原発から30km離れているから安全だと考えて津島地区への避難を決意。しかし、実際には放射性物質は津島の方に拡散していった。政府は予測システムSPEEDIでこの情報を知り得る立場にあったが浪江町への連絡はなかった。
馬場「私は情報開示がなくて一番悔しいのは、その放射能が私どもが追いかけるような状況で避難してきたことなんです」(目を潤ませながら)「SPEEDIの情報公開がなかったものですから、私どもは4月3日まで、まさかこんな放射能の高いところに居たということを全然わからなかったですね」
ヤツコ「故郷に戻れる可能性についてどのようにお考えですか?」「戻れる社会の基盤整備、ぜひとも戻れる環境は作りたい、ただ、若い人が戻れないという社会構造になると町そのものの機能が果たせない心配はあります。ですから私どもの町では今後どういう風に行くかというのでは、もう、脱原発を目指して、自然再生エネルギーの形で、自分の電気は自分でもうまかなっていこうということで今後復興計画をたてています」
浪江町2万1000人の住民たちは放射能の影響から仮設住宅など慣れない環境での生活を続けています。ヤツコさんはその人々に是非話を聞きたいと考えた。
「どうぞ… ごくろうさま。五十嵐和明です」「地震・津波の被害は特になかった。でも、測定器の目盛が二ケタ以上になる。数値を見ると納得いかない。」「お子さんは?」「8人で暮らしていたんです」「これが家、この辺で二けた」「お孫さんですか?」「そう、この子たちが山梨、白河、山形。子ども三人、バラバラ。近くにいてしょっちゅう会っていたんです。今は三か月に一度くらい」「私は、アメリカで原発を規制する仕事をしていました。あなたが私やアメリカの人々に訴えたいことは何でしょうか?」「あのね〜・・・戻りたい。戻りたいんですけど、今までの生活が家族で住んでいたでしょ。子どもはもう戻らないと言っている。ただ、除染をして、まわりだけ除染して、帰って、生活できるのかな〜その辺、一番、心配。 皆、戻りたい人ばっかりなのね」(目は潤み、こみ上げるものをこらえる五十嵐さん。ヤツコさんには通じたようです)「大変な状況に対応していらっしゃいますね。 皆さんの苦しみが少し解り始めてきたような気がします」「狭いのがね…最近、慣れてきたけど」と笑いながら、お別れの握手をして。
福島第一原発が稼働を始めたのは42年前、原発事故が起きた時周辺住民にどんなリスクが降りかかるのか詳細に検討されることは無かった。住民は地域に雇用が生まれることや安全性が強調されていたことから原発を受け入れてきた。国は原発の安全性を強調し、リスクの説明には消極的だった。広報用のパンフレットにはこう説明している。「わが国の原発の安全は厳格な安全規制と管理により確保されておりシビアアクシデントの発生は現実には考えられません。」
重大な事故の発生は考えられない、しかし、事故は起き、長期の避難生活を強いられている現実。
先月12日には集団訴訟を起こしました。
平穏な生活を奪われたとして国と東京電力を相手に賠償などを求めています。
原告の一人、浪江町の住民は訴えます「未来ある子どもたちのために故郷(ふるさと)を取り戻してやりたい。国と東京電力は自らの事故の意味をあきらかにしてほしい」。
原発のリスクを考えるとき、我々は周辺住民のことを充分に考慮してきたのか、ヤツコさんは仮設住宅に住むお年寄りを訪ねました。
テーブルを前に腰かけていた二人と話します。「アメリカから来られた・・・」「絶対安全、大丈夫です。何が大丈夫ですか。40年足らずでこのザマです。家族全体でいられないということが一番つらいですね。バラバラですからね。年寄りは年寄り。若い人は若い人で仕事に。その間、親と子がバラバラになるんです」「あなたの思いをお聞かせいただきありがとうございました」
つぎに3人の女性たちの所へ。「家はどちらですか?」窓際の方「浪江町の津島です。線量が高くて帰れない。ここにきて町の人たちと一緒になったもんで気持ちが晴れ晴れしてきましたけど(涙をぬぐいながら)」「戻れると思いますか?」「戻りたいですぅ〜〜。戻れるものなら、戻りたいです(にじむ涙を指でぬぐいながら)」。真中の方が、「帰りたいですね。もう年ですから。出来れば最後のお別れに自分の家に行きたいような気がします。無理でしょうけど…」
←浪江町は今月1日、避難区域の再編が行われた。
年間の放射線量が20ミリシーベルト以下を避難指示解除準備区域、50ミリシーベルト以下を居住制限区域、津島地区など放射能汚染が深刻な地域は帰還困難区域となりました。去年12月、浪江町が一部住民を対象に行ったアンケートです→
帰町することが可能となった場合でも戻らないと答えた人が4割を超えました。その理由として多くの人が「原発の不安・不信」を挙げている。
アンケートの意見のなかには:
「ここに来て直接皆さんと話をして私が感じたことは、電力供給のために人が作り出した技術のせいで人々が故郷から引き離される事態は決して容認できないということです。」「電力供給と引き換えにこのような事態があってはならないのです。」「今までとは違う原発の安全基準が必要だと強く考えるようになりました。大規模避難の危険はないと保証できる場合のみ原発の稼働を許可すべきです。これが最終目標(GOAL)であり正しい道だとここを訪れて本当に実感しました。」「大変な労力を要すると思いますが必ずやるべき仕事です。」(つづく)