金曜デモと中国の「日本学」と京都・太秦はなぜ「うずまさ」?

金曜デモ、東京の官邸前、国会前のルポをいつもの「特別な1日」さんのコチラで:http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20130518/1368809186
「TPPの正体(笑)+夕陽の中の抗議:★0517 大飯原発を停止せよ!首相官邸前抗議」というタイトル通り、今回はTPPについての考察、丁寧な解説で始まっています。たくさんの写真で参加している様々な人達の様子が紹介されています。子どもたちの参加は嬉しいです。
そして大阪、「青空学園便り」さんは金曜行動にかえて、広河隆一写真展「福島そしてチェルノブイリ」を取り上げておられます。日本は原爆からもチェルノブイリからも学んでいないという指摘が切実に響きます。<『福島県以外の人は年間1ミリシーベルトで守られて,福島県人だけは年20ミリまで我慢しろってことなんですね』と言うと『まあ,そういうことになりますね』という保安院のこの対応をつたえる小川さんの言葉は歴史の証言である・・・.忘れないようにしたい>。 
詳しくはコチラで:http://d.hatena.ne.jp/nankai/20130517
◎お二人のブログを読んでいると、私たちの日常生活の中…新聞やテレビや日々の暮らし…の中でどんなに避けられたり消されたようになっていても、2年前のあの事故以後の原点は「福島」にあるということを明確に意識できます。


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さて、隣りの母が『日経は面白くないでしょ』と讀賣の夕刊を届けてくれています。讀賣の社説は読んだことがありませんが、夕刊はなかなか面白い話題が提供されています。今回は、学者さんの日中友好のお話です。
中国の日本学は、「長らく日本の武士道がタブー視されていました」が、成熟してきた。「2009年には、北京で初めて武士道をテーマとする日中韓の国際シンポジウムが開催された」「日中友好の良い時代であったのだけれども、尖閣問題が発生してからというもの、私の中国行脚も途絶してしまい、残念」「しかし中国の友人たちとの交流は今も変わりなく続いています」と書いているのは、笠谷和比古という方で、「日だまりカフェ」というコラム。後半、引用です:

 尖閣影響、中国の日本学も/ 笠谷和比古 


 京都で先日、旧知の上海名門大学のC教授と胸襟を開いて難しい問題を話し合いました。先方は、尖閣諸島(中国名・釣魚島)は明代の中国古地図にも記されており、日清戦争のドサクサに紛れて日本が奪い取ったものだという、中国政府の公式見解的主張です。
 そこで言いました。「たしかに尖閣諸島も昔は中国の息子のような時代もあったかも知れない。だがそのうちに中国はその子の養育をしなくなり、関心をもたなくなった。日本がその子を養育するようになっても、別にどうでもよかったのだ」
 「ところがその子供が成長して大金持ちになってしまった。そうしたら突如、『その子は自分のところの人間だ。泥棒、返せ』と日本に迫ってきた。そんな身勝手な父親の話ではないの」と。
 そしたらC教授、破顔一笑。これは中国のみんなに話して意見を聞いてみようということになりました。再会の時が楽しみです。
国際日本文化研究センター教授・日本近世史)

いいお話ですね。冷静に話し合って解決すべき問題で、感情論だけは避けるべきだと思います。
もう一つは時代劇のメッカ(古い言い方?)、京都は太秦(うずまさ)のお話です。
読み方が難しいのに子供のころから知っていたのは時代劇映画のお蔭です。太秦は「国宝・弥勒菩薩半跏像で有名な広隆寺があり、嵯峨野、嵐山の観光地に近く、全国から観光客が訪れる」。その太秦はなぜ「うずまさ」なのか?という記事です。記事を引用すると:

 「秦」の字が示す通り、このあたりは渡来系の秦(はた)氏の拠点だった。彼らは進んだ技術によって太秦を含む嵯峨野一帯を開発した。葛野(かどの)川(桂川)の渡月橋が現在ある辺りに大堰(おおい)、つまりダムを築き、用水によって土地を農地化していく。
 広隆寺は6世紀から7世紀前半にかけて朝廷に仕え、財政を支えた秦河勝(かわかつ)が建立した。秦氏の養蚕技術との関係から蚕の社の名前で親しまれる木嶋(このしま)神社も太秦にある。
 「うずまさ」という言葉はどこから来たのだろう。 ▽ウズは秦氏の出身地とされる朝鮮半島の地名、蔚珍(ウルチン)がなまった。マサは朝鮮語で村を指す▽古い日本語で族長的な人物を「うず(づ)まさ」と呼んだーなど諸説ある。秦氏の祖先をユダヤ人とする話まであって、古代ヘブライ語で光を指す「ウズ」と賜物(たまもの)を意味する「マサ」を組み合わせたというのだ。蚕の社には3本柱の「三柱鳥居(みはしらのとりい)」があり、これがユダヤキリスト教の三位一体を表す、と。
 「謎の渡来人 秦氏」の著者、水谷千秋・堺女子短期代准教授いよれば「確かなのはうずまさが最初、個人の尊称として登場したこと」。「日本書紀」の雄略天皇15年(471年)、秦酒公(さけのきみ)が上質の絹地をうず高く積み上げて献上し、朝廷から「禹都(うず)(豆)麻佐」の姓を賜った、とある。
 その後、酒公の子孫が本家本流をアピールするため偉大を意味する「太」を「秦」の前につけて「うずまさ」と読ませたのだろう。一族の河勝も東国の土着宗教勢力を討伐した功績をたたえる歌の中で「うずまさ=太秦」と呼ばれた。
*** 以下略

雅楽師の家に生まれ多方面で活躍されている東儀秀樹さん[53]は秦河勝の子孫だそうです。
紹介記事の中では、「うちは秦河勝の子孫なんだと祖父母に聞かされてきました。だから歴史上の人物ではなく、ご先祖という感覚」「途切れることなく雅楽をしてきた家で、それが秦氏の子孫である証明でしょう。秦氏の系統で雅楽師の家はいくつかあったけれど、現在では東儀家だけ。使命感もありますが、この家に生まれ、天職を得たと思っています」。
隣町の池田市にもゆかりの神社があります。「摂津国 豊嶋郡秦下郷 池田市室町 秦下神社(呉服神社)」