「市民の意見」誌より、「記念日の思想」

「市民の意見30の会・東京」が発行している「市民の意見」という冊子の138号が届き、先日から読み始めています。
36頁もあり、どれもこれも充実した内容の記事ばかりです。その一つが「運動の現場から」という括りのなかにあり一昨日のブログで取り上げた「全日本おばちゃん党―結党」という記事でした。
今日は、「特集 安倍壊憲政権と対峙する」という4つの記事の中の一つ、早稲田大学憲法学教授水島朝穂氏の記事を取り上げてみたいと思います。
その前に、「編集後記」の一部から:

昨年末以来、ぼくは安倍政権の巧みな「戦略」を切歯扼腕の思いで見ています。大衆の関心を引きつけ誘導するための耳触りの良い政策的スローガン、マスコミが飛びつきそうな話題を絶えず提供し続ける綿密に仕組まれたシナリオとパフォーマンス、時間軸に沿った明確な短期的目標の設定とヒト・モノ・カネなどあらゆる資源の集中的投入・・・…。これは企業経営の手法そのものです。小泉政権の時と同様、おそらくシンクタンク広告業界、各大学の学者をはじめ、政官財界からマスコミまでを巻き込んだ相当の広がりと数のブレインが裏方として日夜走り回っているに違いありません。安倍や橋下に喝采する国民がアホなのではありません。我々の運動が旧態然としたまま、「戦略的」に後手に回っているのではないでしょうか。ゴマメの歯ぎしりであっても、今号がその反撃の一歩になれば良いのですが……。(今号担当)

◎私は、ただ呼びかけに賛同する寄付金を送っただけ(名前の掲載も求めず)なのですが、大きな新聞紙2頁大の意見広告の実物大が同封してありました。総賛同者数は8150名だそうです。デザインは和田誠氏です。「この市民意見広告運動は、いかなる政党・党はにも属さない市民運動です。毎年、憲法記念日のきょう、志を同じくする者たちが賛同金を出し、意見広告を掲載してきました。ホームページにも掲載しております。ご覧ください。」(「市民の意見30の会・東京」http://www1.jca.apc.org/iken30/
さて、本題の記事です。一部省略しながら引用です:

「記念日」の思想――KM(空気が見えない)首相の危うさ     水島 朝穂

                                                                                                                                                              • -

<前略>



記念日というのは一定のサイクル(年単位)で、歴史的な出来事を想起させる「装置」である。このことは、9年前、「それぞれの『記念日』」でも書いた。ドイツのG.シュレーダー首相(当時)は戦後60年を前に、フランスのノルマンジー(6月6日)とポーランドワルシャワ(8月1日)を訪れ、また帝政時代の旧植民地ナミビア(8月11日)に閣僚を送って、「過去」と向き合った。これでドイツは、ヨーロッパのみならず、かつての植民地諸国においても支持と信頼を確実なものにして、国際的な地位を確固たるものにした。見事な「記念日外交」である。


 同じ頃、日本の首相と閣僚は靖国神社参拝をやって、周辺諸国とのあつれきを深めていた。かくして、2004年の時点で、「過去の克服」の問題に関する日独の差は圧倒的に開いてしまった。



昨年12月、村山談話河野談話まで覆して、過去の蓄積を台無しにする第二次安倍内閣が誕生した。戦後68年を前に、この国は、長年にわたって築いてきた周辺諸国との関係を失いかけている。



日本の政治家に「記念日外交」ができないのは、歴史的知見や教養が足りないからだけではない。特殊な「価値観外交」を過度に押し出すため、不必要な摩擦を広げてしまう点も無視できない。ドイツの対外政策を長年にわたり観察してきた者として、ドイツの政治家の多くは過去の歴史を踏まえ、「記念日」に配慮しつつ、それぞれの国に慎重かつ周到に向き合ってきたことを指摘したい。日本の政治家のように、7月7日(蘆溝橋事件)に首相が尖閣国有化を表明し、9月11日(満州事変の1 週間前)にその閣議決定を行う無神経さは、ドイツの政治家からすれば信じがたいことである。



安倍首相は最近、「記念日」の使い方において、二つの重大な誤りをおかした。


 その一つは、閣僚の靖国問題に対する中国や韓国の批判に対して、「どんな脅かしにも屈しない」という異例に強い言葉を使ったこと(4月24日参院予算委員会)、歴史認識について、「侵略という定義は定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかでも違う」(4月23日同)と述べたことである。他国の批判を「脅迫」と受け取る感覚は理解できない。内心が相当歪んでいないと、このような余裕のない言葉は出てこないものである。もしドイツの政治家が「1939年9月1日」について、「国と国の関係でどちらから見るかでも違う」と言ったら、即刻辞任だろう。「イスラム原理主義者」を批判する安倍首相は、他国から見たら危ない「靖国原理主義者」に見えるのかもしれない。これは日本のイメージを相当ダウンさせていることになる。私は使いたくない言葉だが、まさにこういう首相の存在そのものが「国益に反する」のではないのか。

<中略>
この写真は『朝日新聞』西部本社版(福岡)と東京本社版を対比したものである。西部本社版は沖縄にも配達される。明らかに東京とは紙面の雰囲気が違うことがわかるだろう。朝日東京の近年の論調の揺れは、この紙面構成にも反映しているように思う。朝日西部は沖縄を管内にしているから、記者も編集サイドも沖縄の現場の空気を踏まえた報道をする。いま、現場の空気とはどんなものか。


 国道58号線を北上して、沖縄本島最北端の国頭村の辺戸岬に着くと、そこに「祖国復帰闘争碑」が立っている。私も何度か行った。「…平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、1952年4月28日サンフランシスコ『平和』条約第3条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躪した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。…」。熱い言葉が連ねられている。



「主権回復の日」がいかにKY(空気が読めない)ではなく、KM(空気が見えない)だったのかを安倍氏に教えるため、『沖縄タイムス』4月28日付特集面の作文を紹介しよう。祖国復帰闘争碑の写真を添えて、当時小学校2年生だった大城知佐子さんの作文が掲げられている。米軍統治が続く1966年、沖縄教職員会が『作文は訴える 沖縄の子ら』を発行したが、その58編のうちの1 編である。

    海に線が引かれた


  うみに、せんがひかれて、
  日本のうみ、おきなわのうみと、わかれているというが、 ほんとうかな。
 ほんとうに、せんがみえるかな。
 うみのうえで あくしゅして、早く日本に、かえるようにするそうです。
 しんせきの、きよしおじさんは、
 いま、日本で、はたらいています。
 きよしおじさんは、日本人になれて いいなあと思います。
 わたしは、大きくなったら、日本にいって、かんごふさんになりたい。
 はやく、みんな、日本人になりたいと思います。


 「北緯29度以南の南西諸島」(サンフランシスコ講和条約3条)が、1953年の奄美諸島復帰後は「北緯27度以南」になった。その27度線の南北で、本土と沖縄から祖国復帰を求める人々が船で漕ぎ寄せ、海上デモを行ったことは私も覚えている。大城さんの「うみのうえで あくしゅ」はそのことを言ったものである。沖縄のことを日本史で勉強した大学受験生なら当然知っている事実である(安倍氏はトータル推薦入学だから勉強していないおそれがある。法学部卒だが憲法の理解も怪しい)。


 海に見えない線が引かれて、沖縄の人々は本土と切り離された。どれだけ日本に帰りたかったか。その思いは大城さんの作文にもあらわれている。「沖縄の人々が耐え忍ばざるを得なかった戦中、戦後のご苦労に対して、通り一遍の言葉は意味をなさない」と安倍首相は政府式典で語った。だが、「通り一遍の言葉」の方がまだましである。沖縄の人々は「また言っている」と呆れるところで済んだかもしれない。安倍氏が「首相主導で」強行した4月28日政府式典こそ、「通り一遍の言葉」ではなく、式典という形を伴う行為によって、沖縄を深く傷つけたのである。


元白梅学徒の一人、中山きくさんは「屈辱の日」沖縄大会で、政府式典の「不条理と無念さ」を嘆き、「61年間の沖縄の苦悩をまったく顧みない歴史認識を欠いた心ない行為」を批判しつつ、「政府式典は平成の沖縄切り捨て」と特徴づけた(『沖縄タイムス』2013年4月29日付総合2面)。「4.28」を「主権回復の日」として、政府主催の記念式典で祝ってしまった安倍氏は、おそらく沖縄の歴史のなかで、「屈辱の首相」として語り継がれることだろう。


<後略>

◎全文はコチラの水島朝穂氏のホームページ「平和憲法のメッセージ」、5月6日付の「今週の直言」(http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0506.html)で。
「市民の意見」誌では「ご本人の許諾を得て全文を転載」しています。
(昨日はいよいよ梅雨素通りの猛暑到来のため柏葉アジサイの葉がダラリとしてきましたので、
 切り時と思って全部を切り花にしました。流木の花器にまず活けて、それから花瓶にも挿しました。
 流し台の前は、バジルの葉にバラが先客、そこに一緒に突っ込んでみました。)