敗戦間際の海軍兵学校の教え「戦後を考えろ!」(早坂暁氏)

従軍慰安婦問題、ナチスの手口に学べ発言問題、靖国参拝問題・・・本当は国内問題、日本人がまずどう考えるかの問題であるはずなのに、情報の伝達が同時になったせいもあって、海外の反応にどう反応するか…という問題にすり替わって久しいような気がします。
靖国参拝を小泉元首相がした時に、韓国の厳しい反応が大々的に伝えられるようになり、内政干渉、国内問題と突っぱねる小泉流。本来なら、A級戦犯合祀をどう考えるか、で、無宗教の施設を新たに建設という話もそれなりに現実味があったのに、対韓国で日本としてどう反応するかという問題にすり替えられてしまいました。外圧が変な方向に利用されると思いました。
国会で靖国問題が議論されることなく、年々、靖国参拝の国会議員が増えています。従軍慰安婦問題も麻生副総理の失言?問題も、日本の国内問題としてまず日本人自身が結論を出すべき問題であり、海外から批判されるまでもなく、まず日本で批判すべきは批判すべきです、なのに、メディアも政権担当の内閣も、本質的な問題のとらえ方はしないで、その時々の海外からの批判を如何にかわすかというその場しのぎでしか対処していません。日本の政治が、大きな展望や歴史的な判断を避けている限り、尊敬や信頼からほど遠いと思ってしまいます。結局、尊敬や信頼に値する政治家を選べていない私たち国民に戻ってくる話ですが・・・。

日経新聞土曜日(3日)の「シニア記者がつくるこころのページ」から、84歳の早坂暁氏の記事を取り上げます。

早坂暁(はやさか・あきら):1929年愛媛県生まれ。日大芸術学部卒。脚本家・作家として活躍。「夢千代日記」「花へんろ」など多くの傑作を生みだし、芸術選奨文部大臣賞、放送文化賞、新田次郎文学賞などを受賞。「ダウンタウン・ヒーローズ」などの小説や「公園通りの猫たち」などの随筆も。」
「2008年に発行された2冊の絵本、「あの日を、わたしは忘れない」「あの日を、ぼくは忘れない」を早坂氏が編集した。1945年8月6日、広島で遭った少女と少年が見た光景と体験を絵と文章で表現。「思い出すのがつらい」と涙を流す彼女らを励まし発行にこぎつけた。迫力に満ちた絵本は英文が添えられ、ミシェル・オバマ米大統領夫人にも贈られた」そうです。
記事を一部前後して書き移してみます:

食べてはいけないものは食べてはいけない

 早坂さんは、戦争の記憶が風化し、威勢のいい言葉が飛び交う今の社会の風潮が気がかりだという。
 「戦後68年間、日本人は他国へ出かけて一人の敵兵も殺さなかった。これを最高の誇りと考えなければいけないのです。今の戦争放棄が押し付けだなどと主張する人がいるが、とんでもない。戦争放棄を選んだ背景には、第2次大戦で亡くなった300万を超える兵士や市民の血と涙の叫びがある
 世界では紛争が絶えず、核開発競争も続いている。
 「人間の思い上がりです。このままでは人類は自滅するでしょう。日本でも東日本大震災東京電力福島第1原発事故を経験したのに、もう原発輸出が話題になっている。放射能のゴミの処理すらできないのに、です。経済はとても大切です。確かに人間は食べないと生きていけない。でも、食べてはいけないものは食べてはいけないのです
 「戦後の日本は欲望のコントロールを失った気がする。経済は大事だが、そこには倫理がなければならない。弱肉強食のジャングルの資本主義は弱者の涙でいっぱいだ。そんな社会は永続しません」 
早坂さんは、自分たちを「日々少なくなっていく絶滅危惧種」と言いながら、「戦後を託された4千人の海兵78期生の生き残りとして、その託されたものを果たしているかと日々自問自答しながら生き延びてきたことを伝えたいのです」と・・・。

◎早坂氏が「戦後を託された4千人の海兵」という、海軍兵学校の校長先生のお話は、こんな日本人がいたの!?!というビックリのお話でした。

「戦後の日本を考えろ」の言葉を胸に

 「1945年4月、僕は海軍兵学校に入学しました。世界一の戦艦ヤマトに乗りたい一心でした。集まったのは15歳の少年4千人。長崎県針尾島に集められ、井上成美(しげよし)校長の訓示の伝達があった。それは『おまえたちは戦後のために集められた。戦後の日本のために懸命に勉強しろ』です」
 「腰が抜けるほど驚いた。『戦っている最中に戦後とは何だ』。必ず神風が吹き、日本は勝つと信じていたのに、『この戦争はもう負け』と言う。僕らは『日本には不沈戦艦大和があります』と食い下がったが、『諸君、沈まない船は船とはいわない。大和はもう無残に沈んだ』と。人生最大の衝撃でした」
 「なんと兵学校では英語の授業が行われ、土曜日には西欧のクラシック音楽を聴かされた。なぜ日本人はオーケストラ音楽をつくれなかったか、なぜ日本は負けたのか。相手と自分を知れと言う。本土決戦を陸軍は標榜するが民族が滅びて何が国体保持だ。お前たちは戦後どんな日本をつくるのか必死に考えろと言われた。僕はその言葉を胸に刻んできました」

原爆投下後の広島を見て、膝ががくがく震えた

 8月15日、終戦。4千人の少年は「それぞれの故郷に帰り戦後を考えろ」の合言葉と共に、貨物列車で故郷へ出発した。帰路に見たのが原爆投下された広島の惨状だ。
 「8月21日でした。山陽線が宮島口からカーブして広島湾に入るんですが、すぐにすごい臭気が入ってきた。原爆で亡くなった人の死体のにおいです。たまらず吐く仲間もいました。僕らは既に物理の教官に原子爆弾の仕組みは聞いていたから、その被害の有様を見たかった」

 「僕たちは、広島駅で降り一夜を明かした。真っ暗な中で見たのが何百、何千と言う青い火です。10万人以上が原爆で命を落とし、がれきの下には死体が埋もれている。雨がしとしと降っていました。見渡す限りの焼け野原に死体から出るリンが燃えている。悪い夢のように美しく恐ろしかった。膝ががくがくして立っていられなかった」


 戦後、早坂さんは8月6日の原爆忌に通い続ける。
 「物理の教官は『彼らはパンドラの箱を開けた』と言ったが、箱を開けた人間の思い上がりに対する怒りと同時に、原爆とい兵器を作り出した科学者への憎しみもありました。ヒロシマを語り継ぎ、次に原爆被害者を出さないためにはどうすればよいか、それが兵学校で託された戦後への思いです
 「02年にインドとパキスタンが一触即発の状況になったとき、パウエル米国務長官(当時)が両国首脳に広島と長崎の悲惨な写真を突きつけ、1945年以後初めて原爆を使う政治家として歴史に名をとどめたいのかと迫ったと回顧録で知った。僕もまったく偶然に、同じころ広島に集められた両国の大学生に写真を見せて迫ったことがある。君らの家族がこんな目に遭っていいのか、と。絵本を編集したのも同じ思いです。誰だって悲惨なことは思い出したくない。でも、悲惨だからこそ伝えていかなければいけないことがある」    (編集委員 岩田三代)

(写真は1日、雨上りの芙蓉とハスの花と実。そして芙蓉とソックリのムクゲの花と青いカキの実)