97歳の父の関東大震災

◎今朝も「shuueiのメモ」さんから原発関連ニュースを2つ。
●右の写真の説明:「福島第1原発の汚染水漏れについて報じる海外の新聞。左上から時計回りに、米紙ニューヨーク・タイムズ、英紙タイムズ、米紙ウォールストリート・ジャーナル」
日本で思っている以上に、福島第1原発の汚染水問題は世界で大きく報じられています。
写真を含む詳しい内容は是非コチラで:「五輪招致への影響、指摘も  汚染水問題、各国が報道」http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20130903/1378155341

●●2つ目の記事は、「東京電力福島第一原発の事故直後、独自の判断で全村避難をした福島県葛尾(かつらお)村の松本允秀(まさひで)村長が2日、国連と国際環境NGOの国際環境賞「グリーンの星賞」を受賞した。日本人で初めて」というニュースをコチラで:「福島・葛尾村長に国際環境賞 原発事故後、全村避難」http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20130903/1378153284

雨の日曜日、リハビリがお休みになるので、少しでも歩いてもらおうと、この日は車いすから立ち上がって歩行器で北側の山が見えるラウンジへ。続いて南側のラウンジで車いすに乗り換えて少し話をすることに。母が「9月12日は入院して一月だから頑張って帰れるようにね」と父に。父は、「自信がない」と言い出しました。初めて聞く言葉に母が驚いています。「家に帰る自信はないな〜、二階ではもう暮らせないし・・・これより良くならないのなら…」と。母は、突然のことで、もう涙声になっています、「そう、自信がないの・・・それなら、施設を探さないといけないね〜二人で入ることにしようか〜」と。父は「お前に世話をかけるわけにいかないしな〜。私は病院慣れしてるし。お前が通えるよう箕面がいいな・・・」と言っています。
本当に仲の良い夫婦です。特に母は良妻賢母。娘としては”賢母”でなくてよかったのに…長女としてエライ迷惑と思った時期がありました。丁度15歳の「少年H」が母に反抗するのと全く同じことを私も経験しています。私の場合は、20歳を前にして結局は自分が自己主張できなかった所為だと解り、今は何もかも感謝していますが。「大正生まれの優等生母親の長女は皆アダルトチルドレンだったんだから」と奈良の友人に言われて、そうだったの〜当時は皆、母親の出来なかったことを娘に託してレールを敷く育て方をしていたの・・・と40も過ぎてから思いました。
話がそれてしまいましたが、母の「良妻」の方は娘の私が言うのもおかしい話ですが、本当に献身的に夫に尽くす妻の役割を完璧に果たしてきた母でした。かつてのサラリーマンの主婦がそうであったように、父が仕事に集中できるように、娘3人を育てながら家の仕事は全部、大工仕事から電気のこと、大掃除の畳の出し入れ、煙突のすす払い、一切の家事から布団の綿入れ、編み物、裁縫と全部自分が引き受けて、父には会社の仕事だけという良妻でした。朝のお見送りは、玄関先の道路に出て、父の姿が曲がり角を曲がる時、振り向いた父が合図を送るまでじっと立って手を振ってから戻ってきます。これは、最終的に父が仕事を辞める70歳まで続いていました。
最近、山へ出かける夫の後姿を曲がり角まで見送ることがありますが、夫はそのまま振り向きもしないで消えてしまいます。自己満足じゃ続かないわね〜と、改めて両親の仲の良さに感心します。

そんな仲良し夫婦のことですから、父は驚くほど客観的に冷静に自分のこと母のことを考えています。母は父を思い、父は母を思って施設の件を自分から言い出した方が良いときめたのでしょう。こうやって決まるのか…と思いました。夫は、筋肉が弱っているだけで、お粥がご飯になれば運動量を増やして又元通りになれるかもしれないと父を元気づけてくれています。
今回は、腰椎の圧迫骨折がありますので、本人は自覚していないのですが、「腰に力が入らない」という表現で、今までの入院とは違うと思っているようです。それは母も同じで、今までは「病院は退屈。早く家へ帰りたい」と言っていたのが、今回は老健の申し込みもしておいてほしいと言っていましたので、家に帰るのは無理だと思い始めているようです。

ベッドの所まで送って、テレビのリモコンの操作を教えて、「じゃ、帰るね」と3人であいさつすると毎回、「ありがとう」と言って手を振って見送ってくれます。帰りの車で急きょ近くの介護老人福祉施設の見学に立ち寄って、説明を受けて館内を案内してもらって説明を受けました。福祉関係のお役目で以前数か所の施設を見学したこともあったのですが、その頃はやはり他人事、理解できていない事ばかりでした。やっと、父が入院して、ヒョッして家に帰れなくなる事態もと考えだしたのは、つい最近のこと。父の口から”自信がない”と聞いた今も、在宅で介護できるのが一番と思っているのに変わりがないのですが、今回92歳になる母を気遣う父の気持ちに心を打たれましたので、それなら本人が言う施設もアリかなという気持ちになってきました。

父に月曜日に出す俳句を選んでもらっていた母は俳句教室出席のため病院行はお休み、私は3時ごろ夫の運転する車で家を出て病院へ。ベッドで横になっていた父は私たちの顔を見ると自分でベッドの上に起き上がって、パイプいすに腰掛けた私たちと話をすることに。
東京の長男が、上手くいけば、一泊の予定で帰省、日曜にお見舞いに病院に寄ってから小学校の同窓会に出席して帰るという電話があったので、父には伝えていました。とっても楽しみにしているらしく、「来るのか?」というので、「都合がつけば…って言ってたよ」。「珍しいな〜久しぶりに会える」と本当に嬉しそうです。「ホントに困ったことやな〜、結婚のケの字も言わんな〜」と。(あれ〜、そんなに心配してくれていたの〜)と長男の話なんかしたことなかった父ですのでビックリしました。「同窓会のついでにお嫁さん見つけなさい…と言ったら、同級生は結婚相手じゃない。もっと年下の東京の子を自分で探すと言ってたよ」と言ったら、”年下”のところで笑っていました。
”歓迎会をしてやれ”と言われていましたので、「土曜日は歓迎会をするね」「家にあるワインを一本.お祝いに出すから」と言ってくれました。
「お盆を過ぎたから、もう、暑くないか?」「猛暑は終わりましたけど、湿気がひどいのと雨が続いています」「昨日はNHK南海トラフの巨大地震の予兆の話があって…」と夫が言うと、「そうか〜、前触れが始まってるのか」と。「二男の会社は南海トラフ地震津波を避けて事業の一部を沖縄に移すことを決め、来年の一月には沖縄に20人ほどが転勤になって、向こうで80人ほどを一人前に育てないといけないらしい。その打ち合わせを始めているんです」と報告。「そうか〜それは行った方がいいな〜」と父も。
私が「前の日の9月1日は防災の日で、関東大震災があった日でしょ。90年前だっていうからお父さんは・・・」「7歳、小学校1年生。揺れたよ」で、ビックリ!!「え、お父さん、知ってるの? 石川県でも揺れたの?」「知ってる、揺れた、大聖寺(京町)の家の母屋と蔵の間にザクロの木があってな、グラグラ揺れたので、その木にしがみついていた」という初めて聞く話に二人で「へぇ〜〜、石川県でもそんなに揺れたの〜・・・それで、関東大震災って後でわかったの?」「翌日の新聞に出たし、その日ラジオでも放送があったからな」と。夫が「当時は木造の家だから大半の人が火災で焼け死んだそうです」「今度は崩壊やな」と父が。
いつになく多弁な父です。「歩けるの?」「何ぼでも、歩ける」「じゃ、少し歩いてみる?」「いや、今はいい」「歩けるって言ったじゃない」「歩けるか?と聞くから、普通に何ぼでも歩けると言ったんや」「な〜〜んだ」と笑ってしまいました。「外の見える大部屋から今朝ここに移ったら、ここは奥まった場所で何にも見えない」「退屈?」「そうやな、何も見えないからな」「歩いて外へ出て行きなさいということじゃない?」「そう思って、歩こうと思ってる」と。
「部屋を移ったのは今朝じゃなくてもう少し前のことだったよ」と言っては見ましたが、個室のことは記憶にないようですし、部屋の移動日も忘れても仕方がないか…と思っています。それにしても、口数少ない父が何と多弁になったこと! 起き上がっていて腰が疲れたらしく横になりたいというのでベッドに寝てもらって、イヤホーンをあててテレビをつけて、私たちは帰ることに。いつものように手を挙げて、夫には「忙しいのにありがとう!」と言っています。
夕方、病院から電話があり、「老健から申込書が届いているが介護認定の申し込みがまだなので早く申請するようにという連絡が入った。電話でも出来るので・・・」ということで老健の電話番号を聞いて、電話で申し込みをすることに。これで、病院から老健、最長半年で、在宅か施設を決めるという流れが見えてきました。半年の間に本人がどこまで回復できるか、それがダメなら、最適な施設を探すという余裕ができました。
倒れた時、母は『年が歳だから何があったって仕方がない、もう十分生きたんだから、若くて亡くなっている方も一杯いるんだから』と自分に言い聞かせていましたが、”何があっても”が静かに今進行中だということです。