金曜デモと「孤立・例外を恐れず”ひとり”で…」(辺見庸)

●金曜デモ「特別な1日」さんのブログでの報告です。「全部が悪いことばかりじゃない。★0927 再稼働反対!首相官邸前抗議!」http://d.hatena.ne.jp/SPYBOY/20130927/1380292678
毎回SPYBOYさんが参加人数を概算で書いておられますが、主催者発表の数字と近いので、スゴイ!と感心しています。一昨日午後のお茶をご一緒したUさんも「ブログでいつも紹介してるけど、どう?」と。「3000人くらいよね」と私。3000人の老若男女の方たちが首都で一週間ごとの金曜日に脱原発でデモを続けていることをどう受け止めるか。
為政者にとっては脅威だろうと私は思います。それぞれの生活があって、その中から脱原発=国の方針に反対する人たちが声を上げ続けている。一人の背後にどれだけの人間の思いが重なっているか・・・。それが毎週続けられる。組織の動員や主義主張にかかわりなく、再稼働反対、脱原発の已むに已まれぬ思いで自発的に行動に出ている方たちが3000人!というのは、同じ思いの私(たち)からすると本当に有難くて感謝・感激の数字です。
ところで、今日のレポートは、タイトルにもありますように「悪いことばかりじゃない。少なくともこれは、そんなに悪い光景じゃない。ちょっとした希望やチャンスは路上に落ちているのかも。この世の中、全部が悪いことばかりじゃない。」写真に添えられたキャプションは「路上で女性の車いすを押す警官。その間も女性は『原発反対』を連呼している(笑)」。とってもいい写真です。ぜひブログを訪ねて写真を!
●大阪関電前は「青空学園だより」さんのコチラで:「金曜行動の日に」(http://d.hatena.ne.jp/nankai/20130927
自民党の小泉親子が「原発ゼロ」を唱えているらしく、それに期待する人たちもいるそうですが、南海さんは小泉純一郎氏の「原発ゼロ」についていろいろ考察されています。手放しで歓迎できるものか考えるヒントに是非読んで考えてみてください。
私も小泉さんが総理の時に『世界最大級の耐震テスト施設を売却スクラップにしたこと』が忘れられないので、その事を今どう考えているのか聞かずに小泉元総理の『原発ゼロ』は信じることはできないと警戒しています。<関連蛙ブログ(11年4月22日)「もしかしたら、福島第一原発の事態は回避できていたかもしれない。そのカギを握る原発の耐震テスト施設が小泉政権下、二束三文で売り払われていた。」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20110422/1303425549)>
●◆ところで、新潟県知事が柏崎刈羽原発の再稼動申請を了解したことについて圧力があったからという説がありますが、このことについてSPYBOYさんは記事の中で、「いわゆる根拠のない陰謀論は何の役にもたたない、そこで思考停止しないで、さらに事実や論理を突き詰めていく努力が、情報を受け止める側には必要だと思う。でなければ、もっと大事な、物事の本質を見失ってしまうのではないか」「いずれにしても大事なのは国民が原発に反対しているぞ、という態度をはっきり表明することではないか新潟県知事にしろ、原子力規制委員会にしろ、県民、国民が反対してなければ、彼らだって個人的思いだけで規制しつづけるわけにはいかない。政治家や学者、役人に頼ってばかりではダメだ。国民が無関心だったから政・官・東京電力の利権トライアングルが形成されたのだし、国民が無関心だったからフクシマの事故が引き起こされた誰かに要求するばかりではなく、自分たち一人ひとりが意志を表明しなければ。」と書き、「ということで今週も官邸前へ(笑)」とひとりでデモに出かけておられます。

◆◆ちょうど私は「あきつ・あんてな」さんの24日のブログで取り上げられていた辺見庸氏の長い講演を読み終えた後でした。SPYBOYさんのこの部分を読んで、まさに辺見庸さんと同じことを言っておられると思いました。
◇あきつさんのリード部分から:「辺見庸の八月三十一日に行われた講演記録です。長いけれど、忠実なテープ起こしのようで、冗長な部分もありますが、かえってそのために読みやすいですから、ぜひお読みください。<略> 辺見庸は、俳句をつくる大道寺将司という死刑囚から来た手紙が黒塗りされている部分についてまず語りはじめます。本を出版して一行詩大賞というのを、受賞したらしいのですね。黒塗り部分は、どうやらその出版した句集のなかから俳句を引用したものであったと前後から推測されるが、なぜそんな部分を黒塗りする必要があるのか、それを徹底して問うていきます。」(引用元:http://d.hatena.ne.jp/amadamu/20130924/1380043829
辺見庸氏と死刑囚の大道寺将司氏については、俳句集『棺一基』を巡ってNHKが番組を放送していて、私もたまたま見ていましたので、あぁ、あの人のことかと思いながら前半は読みました。長い講演の後半部分から引用してみます。

死刑廃止国際条約の批准を求めるFORUM90
辺見庸   死刑と新しいファシズム  戦後最大の危機に抗して
2013 年8 月31 日の講演  3 〜 21 頁 (http://www.forum90.net/news/forum90/pdf/FOLUM131.pdf)


後編


 長いこと、一時間以上かけて、この黒塗りの手紙についてお話ししました。けれども、ぼくはまだ、手紙を塗りつぶした「真犯人」については言及してはいません。その究極の真犯人のことを考えながら、次の話をしたいと思います。
 

みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか?  総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかった、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上がってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換してゆく


だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされていない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこにもいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間ではありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいます。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送ってはいません。未曾有の歴史的な瞬間に見あう内省をしてはいません。


3.11 は、私がそのときに予感したとおり、深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっかけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人びとは浮かれはじめている。


「社会の内面」が変化


政治は、予想どおり、はげしく反動化しています。それにともない、「社会の内面」がおかしくなりつつある。社会の内面というと何のことかと言われそうですが、たとえば、高校の教科書の問題、みなさんよくご存知だと思いますけれども、高校の日本史の教科書をめぐる神奈川県の話。あれだって歴史的な瞬間だと私は思っております。実教出版からの「高校日本史A」「高校日本史B」。それには国旗・国歌法に関する説明で、「政府は国旗の掲揚、国家の斉唱を強制しないということを国会審議のなかで明らかにした」「しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という、誰もが知っている事実、むしろちょっと食い足りないくらいな記述があるのですけれども、実際には記述どおり、あるいはそれ以上のでたらめな監視、それから強制、処分があります。たとえば「君が代」をうたっているかどうか、口パクだけじゃないかどうかということを、わざわざ教育委員会とか、あるいは極右の新聞記者が監視しにきてそれをメモっていく。わざわざ学校や教育委員会に電話をかけて告げ口したり記事化したりする。極右というのも、非常に懐かしいことばですけれども、しかしいまや日常の風景になってしまっている。 


 <中略>


 さらにおどろくのは、これを伝えたNHK のニュースが、これを関東版のローカルニュースとしてごく簡単に流したことです。全国版の、もっと上の価値のある、重要なニュースバリューのある問題としては、なんとかいう雑誌が、読者五十人に対してプレゼント当選と掲載しながら実際には三人にしかプレゼントを送っていなかった、これが、現下深刻に考えるべき不正な問題として全国ニュースで大きく取り上げていました。読者五十人に対してプレゼント当選と掲載しながら実際には三人にしかプレゼントを送っていなかった雑誌の虚偽と日の丸・君が代およびそれらをめぐる教科書にかんする神奈川県教育委員会の間違った断定。どちらが重要でしょうか? 問題の質としてどちらが重いでしょうか? 物事の軽重、上と下、白と黒が、逆になってしまっている。われわれは受信料を、ほぼ半強制的に支払わせられながら、ファシズムを買っている。わざわざお金をだして、ファシズムをなぜ買わなければならないのでしょうか。なにかおかしくはないか。

後編のトップから中抜きでいきなりですが、最後の締めくくりまで飛びます。
(カットする見出しを並べておきます:「日本の原ファシズム・不自由を希求?・歴史の大転換・ナチスに学べ?・危ない秘密保全法案・日本版愛国者法・知識人の弱さと卑劣さ・ここまで許してしまったもの・禁中の薄明と刑場・ファシズムの培養基」)

究極の「真犯人」はわれわれ

 


きょう、一番最初に私は、花鳥風月のようなことをお話ししました。カメムシとかタマムシとか、ウマオイを見たということを申し上げました。私が思ったのはこういうことなんです。ウマオイの美しさ、あの鮮やかに透きとおる新鮮な緑の素晴らしさといったらなかった。で、こう思ったのです。死刑囚たちにですね、なぜウマオイを見せてはならないのだ、と。死刑囚が句集をだして、俳句の本をだして賞をもらったのであれば、なぜ小声でもいいから「よかったね」と言ってあげることができないのだと。言ってあげる「個」が、ひとりだっていたっていいではないか。きょうただちに死刑制度を廃止できなくても、死刑囚をもっと人間扱いすることはできるはずです。これはすべてに通じます。例外がない。「個」をもとうとしない。獄外にいる私にまで黒塗りの手紙を送りつけて脅しをかけてくる。これが民主主義ですか? 死刑囚たちになぜウマオイを見せてはいけないのか。


たぶん、ぼくよりもよっぽど素晴らしい詩を書いたりする。句を詠んだりするかもしれない。スケッチをするひともいるかもしれない。なにもしないひとがいるかもしれない。でもいいじゃないですか。見せたらいいじゃないですか。宇宙のすべてのものは歪みのなかに存在しているといいます。なぜ決まったとおりにやらなければいけないのでしょうか? 法律はいま、例外状態になって崩れてきているのです。にもかかわらずすべてに規則を適用しようとする。学校でもどこでも、正常な規則があるかのごとき言い方をする。それより先に人の心に得心のいくことをすべきです。ウマオイの美しさを、子どもたちに、死刑囚に、いわゆる「確定死刑囚」に見せて、なにが悪いのでしょうか? ウマオイがいたら、ウマオイを見せる。綺麗だな。じゃ、ちょっとだけな。これは譬えですが、あれを見ろよ、ちょっとだけな、と。「個」として言う人間がいない。理屈だけは言う。もうこの国はだいぶだめになっていると。飲み屋で新聞記者たちが言う。うちの社はもうダメですと。でも「個」として、身体を張って、じゃ五分だけウマオイを見ようぜ、と言う人間がいない。


つまり例外者がいなくなってきている。例外がないってなんでしょうか? ファシズムです。ファシズムというのは、全員が黒シャツを着ることじゃないんです。銃を持って行進することでもない。例外がない。孤立者がいない。孤立者も例外者もいないってなんでしょうか? ファシズムであり、不自由な状態なのです。われわれは自由ではなく不自由を求めている。ウマオイを死刑囚に見せない。手紙を塗りつぶす。それは不自由の強要なわけです。それは死刑囚に対する強要だけではない。獄の外にある、われわれに対する威圧です。われわれは妄想し、考え、悩み、詩を書き、歌をうたい、好きな歌をうたい、あるいは嫌いな歌をうたわない。みんなNHK の「花は咲く」をうたって、どうするんですか? 


いまはどこにも戦線、つまりフロントラインはないのかもしれません。見わたすかぎり、どこにも境界のないのっぺりとした地平にわれわれは生きているのだと思います。どこにも戦線はないかもしれない。でも目を凝らしてよく見れば、戦線だらけではないですか。世界は「世界内戦」と言われるほどのかつてない内乱状態です。世界規模の内乱です。枢軸国も連合国もない。古い国民国家像はすでに溶解し崩れてきている。身のまわりでも価値の体系が危うくなっている。人の世はここまで堕ちることができるのか、と息を呑むばかりです。獄外が獄内に対し、倫理的優位にあるということはもはやできません。死刑制度はますます根拠を失ってきているのです。死刑が「確定」するという法的プロセスは、人間存在を前提とするあらゆる法に照らしても無効であり、ぜったいに無効であるべきです。「個」が「個」として生きてあることの目的、意味、意義の消滅、わからなさが、苦悩なき空無が、私はファシズムだと思うのです


 きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。


ウマオイを見せることです。死刑囚にでも、子供たちにでも、見せる。その心根、勇気、心の自由を私たちは確保すべきです。いま、語ることは語ることの無意味と戦うことです。怒りは怒りの空虚に耐えることです。お遊戯の指で、ほんものの時はかぞえられません。地上のその明るさで、地中の闇をはかることはできない、といいます。死刑制度と死刑囚についてもっともっと思いをめぐらしましょう。


手紙を黒く塗りつぶした「真犯人」について、最後に告げなければなりません。「真犯人」は、それを許してきた、われわれなのです。死刑を存続させている究極の「真犯人」は、権力であるとともに、それを許しているわれわれなのです。 

◆是非、全文をコチラで: (http://www.forum90.net/news/forum90/pdf/FOLUM131.pdf)
後編がどうして死刑制度や死刑囚のことを考えることから導き出されるのか読んでみてください。