スパイ冤罪事件と秘密保護法(沖縄と北海道)

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◎福島の放射能汚染問題が気になりますが、また、また一寸前の番組です。特定秘密保護法案が法律になった6日の翌日7日の報道特集は、「沖縄戦・スパイ扱いされた住民の悲劇 」でした。TBSの番組サイトのアーカイブからコピーです:http://tbs-blog.com/houtoku-kanehira/25989/

特定秘密保護法が対象としているものの中に、「スパイ活動」が含まれている。この「スパイ」という言葉がこの特集のキーワードだ。
太平洋戦争当時、沖縄で住民が日本軍にスパイ扱いされた挙句、虐殺されるという事件があった。久米島事件だ。同じようなことは糸満などでも起きた。
一方、太平洋戦争当時、ハワイの日系人もスパイ扱いを受け、辛酸をなめた
真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった12月8日を前に、住民をスパイと疑うことが何をもたらすのか。ハワイと沖縄から考えた。
金平キャスターとフリージャーナリスト原義和氏の取材。

アメリカの日系二世たちは、”日本のスパイ”と疑われることから、アメリカに忠誠心を示す為米軍兵士となり、沖縄へ送られる。一方、沖縄では、方言禁止の命令が下る。沖縄で普段使っている言葉を話すと本土の人間には解らないということで、間諜(スパイ)とみなされ銃殺された。投降することは許されなかった。日系二世の元兵士は、日本人兵士が沖縄の人たちを虐殺(銃や刀で)する現場を見た、”恐ろしかった”と語る。この番組は、ハワイで、当時、マイクで投降を呼びかけた日系二世と、その呼び掛けで助かった沖縄の日本人が戦後初めて再開する場面から始まる。

ところで、居間の丸テーブルの上に乗っていた「登山時報」という山の機関誌?に見つけた記事。
昭和16年、北大生がスパイ容疑をかけられた事件をシリーズで追った記事で、秘密保護法との関連でも書かれています。
書き手の山野井孝有氏(1932年生)は、元新聞記者で、息子さんは、凍傷で足の指10本をなくした登山家のあの山野井泰志さんです。長い記事の中からダイジェストで:

岳人・宮澤弘幸「スパイ冤罪事件」−青春を引き裂いた戦争ー第5回
宮澤弘幸「スパイ断罪」は冤罪である  山野井 孝有


 内閣総理大臣・安倍信三が「安全だ」と海外へ売っている「原発」がほとんど安全検査の行われていない輸出であることが新聞で報道された。また東京オリンピック招致では「放射能汚染は完全にブロックされている」と嘘をついている。さらに「福島は東京から200kmも離れている」と言って、未だに自分の家に戻れない福島の人たちを逆なでし、置き去りにしている。そして「オリンピック東京開催」に日本中は万歳して大騒ぎした。
 日本は先の戦争で対戦国だけでなく多くの人たちの命を奪った。広島と長崎に落とされた原爆で一瞬にして数十万人の命を失っている。そして2年前の「原発事故」さえ忘れてしまう国民なのか。
 しかし、決して忘れてはいけないことがある。戦争終結後68年経ったいまも「スパイの家族として」悲しい辛い人生を歩んでいる人がいることだ。

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 宮澤弘幸らを一斉検挙した「軍機保護法」が、当時の議会で抜本改定論議された時、暴走に歯止めをかける付帯決議や軍・政府による答弁がいくつも残されたが、改定成立後はすべて無視された。・・・・・軍機保護法の再来である秘密保護法案が成立すれば、宮澤弘幸とその家族やレーン夫妻らを襲ったのと同じ悲しみと苦しみが、あなたとあなたの家族に、私と私たちの家族の身に起きる。それが、「秘密保護法」だ。だから法案の中身が少し手直しされたとしても本質はあの「軍機保護法」と全く変わらない。
 宮澤弘幸は戦後、占領軍による超法規措置で釈放されたあと、再会した岳友(前回記述)マライーニに対し「裁判は茶番だった」と語ったという。そして、その後伏した死の床にあって「北海道のことは必ず書く」と言い残して27歳の若さで命を落とした。落としたというより奪われたのである。


 旺盛な好奇心に監視の目


 北海道帝国大学の学生、宮澤弘幸がなぜ検挙され懲役15年の刑で極寒の網走刑務所に投獄されたのか……。宮澤弘幸は好奇心旺盛で機会があれば何でも見聞きし、どこにでも出かけた。軍主催の軍事講習などにも積極的に参加した。旧満州にも出かけた。これらでの見聞の多くは北大新聞や北海タイムス(現・北海道新聞の前身の一つ)などに掲載されてもいる。
 山登りが好きな宮澤弘幸は、北大に籍を置く研究者であり、研究者であり登山家でもあるイタリア人マライーニと共に北海道だけでなく本州の穂高などにも登り、さらに自転車で2人は北海道を駆け巡った。こんなオープンな青年がなぜスパイなのか。 


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 この事件の捜査・裁判記録は大審院判決などごく一部を除いてほとんどが終戦時に廃棄された。8月14日の閣議で外交文書を含むすべてを廃棄することを決定、同18日には市町村にも通達された。
 だが思わぬところで廃棄を免れた資料もある。旧内務省の警保局外事課が内部資料として編集した文書の中に一審判決の主要部分が書き移されて収録されていた。以下は、この文献をもとに検証してみた。

◎<これが「スパイ」の容疑>のところで、6つほどスパイと断じられた事項が紹介されていますが、どれも、「正々堂々のもので、スパイの影など微塵もない。判決自体も重罪を課すにはまるでそぐわない次元にとどめざるを得ない判示になっている」ので省略。

 ・・・<中略>・・・


 軍機保護法は1899年(明治32年)に公布された古い法律だったが、盧溝橋事件の起きた1937年(昭和12年)に、新法と言ってよい内容に抜本改定された。
 この時の議会審議で多くの時間を割いたのは、誰が「秘密」と決めるのか、その「秘密」の範囲をどこまでとするか、さらに適用する範囲をこまでとするか、という歯止めの議論だった。
 これに対して軍及び司法当局は繰り返し「秘密の決定は陸海軍大臣が省令を以て行うが、その秘密は軍の最高指揮に関わる高度のものであり、不正不法の手段で無ければ感知し得ないものであり、これを不正不法な手段によって探知し漏泄した者だけを罰する」という趣旨の答弁を行い、これらの答弁を基にして「本法に於いて保護する軍事上の秘密とは、不法の手段に拠るに非ざれば之を探知収集することを得ざる高度の秘密なるを以て、政府は本邦の運用にあたりては須く軍事上の秘密なることを知りて是を侵害する者のみに適用すべし」(原文は旧仮名遣い片仮名表記)――という付帯決議をつけることによって可決成立させた。


 無視された「歯止め」


 ところが「宮澤・レーン事件」を見れば、これらの歯止めがすべて無視され、国民を取り締まる悪法として独り歩きしていることが明らかになる。
 
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 こうして起訴され、裁判に付された「事件」は、拷問による自供調書のほかには何の客観的証拠も証言も提示されていない。従って有罪と断じた判決文にも「犯罪」を証明する論証すらなく、「秘密」を「探知」するにあたって不正不法の行為があったとの判示もない。一言でいえば、一方的に容疑を並べた起訴状と同じ判決文があるだけである。
 その上裁判はすべて非公開で行われた。「秘密」が傍聴人らに寄って外に漏れるのを防ぐためとされ、また戦時特例法によって、弁護権も制限され、手続きも端折られ、判決の内容さえ被告人らに周知徹底されなかったと推定される。
 控訴審も同じ特例法に寄って省略され、上告された大審院も検事の意見を聞いただけで、公判を開くことなく書面審理で「棄却」と断じている。まさに宮澤弘幸が言う「茶番」であり「暗黒裁判」だった。
 もし上田誠吉弁護士が今も存命だったら「再審」に踏み切っただろうと私は考える。


 秘密保護法は丸ごと阻止を


 今国会に上程されている「秘密保護法」はまさに軍機保護法の焼き直しであり、それは安倍政権が進めている憲法改悪―戦争放棄の「9条」を改悪することと深くかかわっている。先の戦争で宮澤博之等が「スパイ容疑」で捕えられることによって「見ざる聞かざる言わざる」の世の中に変えらていったのと何ら変わらない。

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